思永館跡(読み)しえいかんあと

日本歴史地名大系 「思永館跡」の解説

思永館跡
しえいかんあと

[現在地名]小倉北区城内

小倉藩の藩校。思永館創立以前、三代藩主小笠原忠基が荻生徂徠の門下生土屋伯曄(儒医)を招いて学問を奨励、元文四年(一七三九)儒学者の石川正恒(麟洲)を京都より招聘、宝暦八年(一七五八)思永斎を開いた。明和六年(一七六九)増井勝之(玄覧)が麟洲の後を継いで書斎頭取となる。安永年間(一七七二―八一)に石川剛(彦岳)が書斎頭取となる(小倉市誌)。天明二年(一七八二)四代藩主小笠原忠総が三の丸で思永斎の地面を広げ、弓馬武術の稽古場を造立、学館と称した(「忠総公年譜」県史資料七)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報