馬に乗り、馬を御する術。本来は軍用の技術で、現在は純粋の競技スポーツとして行われている。日本の馬術は、古くから弓射の法と結び付いた騎射として発展し、陸戦の際にもっとも重んぜられた武技であった。(1)鞍(くら)(騎坐(きざ))、鐙(あぶみ)(膝(ひざ)、脚)、手綱(たづな)、鞭(むち)、縄、音声などを扶助として、馬を自分の思うように乗りこなす騎乗術、(2)戦場における軍馬術、(3)儀礼用あるいは競技的な馬術、などを含む。
[渡邉一郎]
日本に騎馬の風習が大陸・朝鮮半島経由で伝えられたのは4世紀の末ころで、6世紀に広く諸国に普及したといわれる。平安時代には公卿(くぎょう)・貴顕の間に騎射が好まれ、駒牽(こまびき)、貢馬(こうば)、白馬節会(あおうまのせちえ)、賀茂競馬(かものけいば)などの儀礼的馬術が行われた。源平時代から鎌倉時代にかけて、実戦的馬術が盛んとなった。とくに源頼朝(みなもとのよりとも)は弓馬の道を重んじ、自ら馬術を錬磨するとともに部下の将士にこれを奨励し、しばしば流鏑馬(やぶさめ)や鷹狩(たかがり)を催して馬上の栄誉を与える機会をつくった。そのため鎌倉武士の間には流鏑馬、笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)のいわゆる馬上三物(みつもの)が愛好された。
やがて室町時代に入り、こうした実戦的馬術が流派武術として体系化が図られ、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)以来の源家の伝統的な騎射を伝承してきた小笠原信濃守貞宗(おがさわらしなののかみさだむね)の子政長が幕府の御厩奉行(おうまやぶぎょう)に任じられて騎射の師範家となり、この門から大坪式部大輔慶秀(おおつぼしきぶだいぶすけひで)が出て、軍用馬術に重点を置いた新しい一派を創始した。これが大坪流で、門下に村上秀幸、斎藤芳連、斎藤好玄(よしはる)らの高名な達人を輩出し、やがて佐々木、荒木、上田等の分派の成立をみる。さらに戦国期に入ると、諸大名は競って駿足(しゅんそく)良馬を求めた。
近世に入り、江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわいえやす)は大坪流の達人で、戦時必須(ひっす)の武技として馬術を奨励した。諸藩もまた馬術師範を招いて馬術に強い関心を示したため、荒木十左衛門元政(もとまさ)、原田権左衛門種明、上田半平安重、上田吉之丞(きちのじょう)重時ら馬術の大家を輩出し、多くの諸流新流を生じた。寛永(かんえい)(1624~1644)以後、いわゆる箱庭式馬術や拍子乗り馬術が流行した。この傾向は5代将軍綱吉(つなよし)の生類憐(しょうるいあわれ)みの令でいっそう拍車がかけられ、この間20余年のブランクに馬術はまったく萎靡(いび)沈滞した。これに対し、8代将軍吉宗(よしむね)はいわゆる享保(きょうほう)の改革に際し、士風刷新のため武芸を奨励した。とくに馬術において騎射をはじめ流鏑馬、打毬(だきゅう)、笠懸、犬追物、水馬(すいば)など古代馬術の再興を図り、さらに洋馬を輸入し、外国人馬術教師を招いて洋式馬術の伝習や馬種の改良・増殖を計画した。こうした気運にのって台頭したのが、斎藤主税定易(ちからさだやす)(1657―1744)の大坪本流である。当時渡来した朝鮮人の曲馬(きょくば)術を見て啓発され、古伝に新鮮な解釈を加え、馬に関する諸術を集大成して、医・相・常・礼・軍の五馭(ごぎょ)の法を唱え、普及に努めた。
享保(1716~1736)以後幕末に至る間、武士の退廃に伴って慰み物的な馬術が流行したが、この間松平定信(まつだいらさだのぶ)、水野忠邦(みずのただくに)らの改革期には、江戸・鎌倉間の遠乗り、犬追物・打毬の上覧、小金原の御鹿狩(おししかり)等が催された。黒船来航後は三兵(歩兵・騎兵・砲兵)調練にあわせて急遽(きゅうきょ)洋式馬術の訓練が始められたが、幕府の崩壊と期を同じくして、和流馬術もその終焉(しゅうえん)を迎えるに至った。
明治時代に入り、1872年(明治5)ころから、フランスやドイツから招聘(しょうへい)した教官によって、西洋鞍の採用、自然歩法への改良など、近代馬術への基礎が形成されていった。その後も馬種の改良とともに、新しいスポーツとしての馬術が奨励され、1899年東京に乗馬会が誕生した。1921年(大正10)国際馬術連盟の創立には日本もこれに参画し、創立8か国に名を連ねた。翌1922年には日本乗馬協会が設立され、ついで1928年(昭和3)の第9回オリンピック・アムステルダム大会に初出場、続く1932年の第10回ロサンゼルス大会には、当時陸軍中尉の西竹一(にしたけいち)が名馬ウラヌス号に騎乗して大賞典障害飛越競技にみごと優勝した。この快挙の陰には、日本近代馬術の父といわれた遊佐幸平(ゆさこうへい)(1883―1966)の渾身(こんしん)の努力があったのである。しかし第二次世界大戦によって日本馬術界は大打撃を受け、国際馬術連盟の会員資格をも失ったが、1946年(昭和21)に至り日本馬術連盟の設立ならびに日本体育協会(現、日本スポーツ協会)への加盟が認められ、1951年ようやく国際馬術連盟への復帰がかなえられた。以来、1952年のヘルシンキをはじめ各オリンピック大会に選手を送っている。
[渡邉一郎]
馬の家畜化は、紀元前4000年ころユーラシア大陸の草原地帯で始まったと考えられる。乗用に先だって、駄載・牽引(けんいん)の用役に供されたと推定されるが、その運搬力、機動力は戦闘力としても重用された。数々の英雄とその軍馬集団が一大帝国を築き、そしてまた別の騎馬民族が台頭するなど、興廃を繰り返してきた。
馬を自由に操る馬術は、騎馬戦における武芸として発達してきたが、銜(はみ)・鞍・鐙などの馬具の発明もそれを助長した。最古の馬術書は、紀元前1400年ころにヒッタイトのキックリによって、5枚の粘土板に楔(くさび)形文字で書かれた。戦闘用に馬を調教し、飼養管理する内容である。前400年ころにギリシアのクセノフォンが書いた馬術書はそのほとんどが今日でも通用する内容で、馬が主人を信頼する召使いとなるよう調教した。ギリシア時代に続くローマ時代は、馬術の暗黒時代で著名な馬術家が出ていない。中世の騎士は、重い甲冑(かっちゅう)に身を固めていたので、当時の馬は負担に耐えるよう大型でずんぐりとしていた。その後火器の発達で重い甲冑は無用になり、戦術も転換が必要となった。馬術は貴族のたしなみとして、高度に洗練されたものになっていった。
16世紀になって、イタリアのグリゾーネは馬術書を著し、ピニャテリはナポリに乗馬学校を設立した。続いて、フランスのプリュービネル、ゲリニエールなど、名馬術家が輩出し、ヨーロッパの高等馬術の伝統は、ウィーンのスペイン乗馬学校やフランスのソーミュール国立馬術学校に、現在も引き継がれている。一方、イタリアの騎兵大尉カプリーリFederico Caprilliは、障害飛越や野外騎乗に即した自然馬術方式を考案し、近代スポーツ馬術の祖となった。1921年には、国際馬術連盟が創立された。設立当初はベルギー、デンマーク、フランス、イタリア、日本、ノルウェー、スウェーデン、アメリカ合衆国の8か国であったが、2018年の時点で134の国と地域に達し、馬術競技のレベルは、第二次世界大戦後、目覚ましい向上を遂げ、国際競技も増えている。
[新庄武彦]
馬に乗り,馬を御する技術で,本来は軍用として生まれたものであるが,現在では純粋なスポーツとして行われている。広義には,キツネ狩りなどの狩猟,ポロ,競馬なども馬術に含まれる。日本には笠懸(かさがけ),打毬(だきゆう),母衣引(ほろひき),流鏑馬(やぶさめ)など儀式用に保存されているものもあるが,これらは〈古式馬術〉と称し,スポーツとしての馬術競技とは区別される。
前4千年紀にユーラシア大陸の草原地帯に住む民族が馬を家畜化したと考えられているが,当時の馬は使役用で,乗用ではなかった。前2000年ころから乗馬の風習が起こり,馬は軍馬としてなくてはならないものになった。古代オリエント,ギリシアでは乗馬が青年教育の主要課目となり,馬種の改良,馬術は大いに進歩した。古代オリンピックの種目として前680年に4頭立戦車競走が,前648年に競馬競走が加えられ,スポーツとしての馬術が始まった。前4世紀のクセノフォンには騎馬術や馬の調教法の著作があり,彼はこのため〈馬術の始祖〉とされている。ローマ時代を経て,5世紀にはヨーロッパでも蹄鉄(ていてつ)の使用が始まり,馬術はますます盛んになった。中世には重い甲冑をつけた騎士が乗馬の実技を競ったが,やがて火器の出現で馬術の機敏性が重視されるようになり,各国に馬術の名手が生まれた。なかでも16世紀イタリアのナポリの乗馬学校のピニャテリGiovanni Battista Pignatelli,教則本を書いたグリゾーネFederico Grisoneの残した影響は大きい。また,ウィーンの乗馬学校Spanische Reitschule(16世紀創立)でも馬術が育てられていった。19世紀にはフランスのソーミュールの騎兵学校のドール子爵Comte Antoine d'Aure(1798-1863)が柔軟な乗馬を唱え,これに対してボーシェFrançois Baucher(1805-73)が格式を重んじた馬術を説いて,ここに近代馬術の基礎が築かれた。さらにイタリアの大尉カプリーリFederico Caprilliによる騎乗法の改良などが加わり,馬術はスポーツとして確立し,1912年の第5回ストックホルム・オリンピック大会から正式種目として採用された。ただし,実際の出場者は48年ロンドン大会まで軍人中心であった。1921年に国際馬術連盟Fédération équestre internationale(略称FEI。本部ブリュッセル)が創立され,オリンピックのほか,各種の公式国際大会を開催している。
日本では古代から馬は兵具の根本をなすもので,馬術は六芸の一つであり,弓馬の家に生きる武士は騎道に精進しなければならなかった。日本に騎馬の風習が大陸から伝えられたのは,4世紀末ごろで,6世紀には広く普及したといわれる。とくに弓馬の術が盛んに行われたのは平安・鎌倉時代で,室町時代初期になると小笠原流,大坪流(始祖,大坪道禅)など多くの流派が現れた。この時代の馬の歩法は側対歩(そくたいほ)であった。明治時代になり,フランスやドイツから教官を招いて西洋式鞍の採用,自然歩法への改良など近代馬術としての基礎を確立した。その後,馬種の改良とともに馬術が奨励され,1899年には東京に乗馬会が誕生して,新しいスポーツとしての馬術が興隆する端を開いた。1921年,国際馬術連盟の創立には日本も参画し,創立8ヵ国に名をつらねた。このことは日本のスポーツ界にとって特筆すべきことであった。翌22年日本乗馬協会が誕生し,28年の第9回アムステルダム・オリンピック大会に初めて出場した。32年の第10回ロサンゼルス・オリンピック大会には陸軍中尉西竹一がウラヌス号に騎乗して大賞典障害飛越に優勝した。第2次世界大戦によって馬術界は一時衰退したが,48年日本馬術連盟としてふたたび中央統轄団体が復活し,同年日本体育協会に加盟してアマチュアスポーツとしての形を整えた。大学馬術部を中心とする全国学生馬術連盟の役割が大きいのが日本の特徴である。一方,国際馬術連盟は,第2次大戦中日本の会員資格を停止していたが,51年に同連盟への復帰を認めた。以来52年のヘルシンキ大会から毎回オリンピックに参加している。
現在,馬術競技は,優美さを競う馬場馬術,大きな障害を飛び越える障害飛越,この両方を兼ね備え,野外不整地の疾走をとり入れた総合馬術の3種目が行われている。いずれも男女の性別なしに参加できるが,障害飛越,総合馬術では18歳以下はオリンピック等の大会には出られない。
(1)馬場馬術競技 60m×20mの長方形の馬場で定められた運動課目を記憶によって行うもので,活発に,優美に,円滑に馬を乗りこなさねばならない。西洋ではフランス語で訓練を意味するドレサージュdressageの名で呼び,高等馬術haute écoleが要求される。馬の歩法には常歩(なみあし),速歩(はやあし),駈歩(かけあし)の3種があり,さらにそのおのおのに収縮,尋常,中間,伸張などがあり,これらを組み合わせて前進,後退,巻乗(まきのり)(直径6mの輪乗り),蛇乗(へびのり)(蛇行状に騎乗),8字乗,横運動,ピルエット(馬長に等しい半径で行う円運動),パッサージュ(歩幅を非常につめ,きわめて収縮し,きわめて弾力に富む速歩),ピアフェ(その場で行う収縮速歩)などを演技する。各運動課題ごとに審判員が0~10点の採点を行い,その合計点で順位を決める。国際規程としては難易度の順に,サン・ジョルジュ賞典Prix St.-Georges馬場馬術,中級(インターメディエート)馬場馬術,大賞典(グランプリ)馬場馬術競技の規程があり,オリンピック大会では大賞典馬場馬術を行うことになっている。
(2)障害飛越競技 騎手が思うままに馬を自由に伸縮し,回転し,決められた広さの地域に配置された複雑な障害を,決められた順序で,歩調を整え,弾力を巧みに使って力強く踏み切り,安全に通過し,より速く飛越する競技。英語ではshow-jumpingという。所要時間の短いものを上位とする競技と,必要時間をあらかじめ定め,それを超過した場合に1秒につき1/4点減点する競技がある。採点はすべて減点法で,減点の少ないものが上位になる。おもな減点は,障害物の落下,転倒(1回ごとに4点),最初の不従順(飛越拒否や逃避などで,3点),2回目の不従順(6点),馬の転倒,落馬(8点)などである。失格となるのは,減点より大きな過失で3回目の不従順,経路違反,場外逸走,制限時間超過などがある。オリンピック大会の障害飛越は,オリンピック大賞典(グランプリ)障害飛越といわれ,閉会式当日にメーンスタジアムで行われる。障害飛越の最上級の国別対抗試合では優勝国賞典prix de nationsを名のることができ,オリンピック大賞典障害飛越もその試合の一つである。ほかに飛越回数競技,六段,リレー,タイム競技などの特殊競技もある。
(3)総合馬術競技 この競技は総合的な運動を同一人馬で3日間に分けて行われ,3日競技three-day eventともいうが,元来は軍馬の能力を試すためのもので,フランスではmilitaire,ドイツでMilitaryと呼んでいる。正式名はconcours complet d'equitationである。第1日は馬場馬術の簡略化したもので調教の仕上がりを審査,第2日は耐久競技で4区に分かれ,1区と3区が道路および小径(合計20km),2区がスティープルチェース(障害競馬場で4km),4区がクロスカントリー(野外不整地で8km)からなるが,距離は大会によって異なる。4区の競技に入る前に10分間の休憩があり,獣医による馬体検査を受ける。第3日は障害飛越を行うが,これはまだ馬に体力が残っているかを試す余力審査で,障害物は障害飛越競技よりは低い。第3日の朝には念入りな馬体検査がある。3日間の総合成績で順位が決まる。
馬具は頭絡(とうらく),手綱(たづな),銜(はみ),鞍などがある。頭絡は銜を馬の口にかませるため馬の頭に着装する革または金属製の馬具。銜は大勒(だいろく)銜(H字状をした大型の銜)と小勒銜(1本銜)があり,障害飛越は通常小勒銜(したがって手綱は1本),馬場馬術は小勒銜と轡鎖(くつわぐさり)のついた大勒銜(手綱は2本)を用いる。鞍は英式鞍(馬場馬術用)と障害鞍があり,障害飛越では鞍と選手の合計重量が75kg以上なければならない(不足の場合は鉛などで補う)。服装にも規定があり,国際馬術連盟の公式競技会に出場する競技者の服装は軍人以外は次のとおりである。各国の馬術連盟が認める乗馬クラブまたは猟騎団の制服,または赤服あるいは黒のモーニング。最近は馬場馬術に黒の燕尾(えんび)服,白の短袴(たんこ),シルクハットまたは猟騎帽が着用されている。女子は黒の上衣に明るいねずみ色の猟騎短袴および山高帽の着用も許されている。猟騎用ネクタイがなければ,シャツカラーおよび白ネクタイをかならず用いなければならない。競技場審判部の意見により,正しい服装を着用しない競技者は,出場を禁止される。普段の練習時においても,乗馬ズボン(キュロット),猟騎帽,手袋,長靴,拍車,鞭(むち)などは必要である。これは美的要素の追求という馬術の大きな目的に沿うよう〈常に美しくある〉ことが要求されるからである。
執筆者:永井 純
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…馬術,フェンシング,水泳,射撃,ランニングという性質の異なった5種の競技を1日で行い,合計得点で順位を決めるスポーツ。
[歴史]
古代オリンピック(前776‐後393)の競技種目の中に五種競技があり,第18回大会(前708)から実施された。…
※「馬術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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