中国古代の思想家。儒教の祖。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。孔子の「子」は尊称。魯(ろ)の国(山東省)の人。
[本田 濟 2015年12月14日]
孔子は、魯の下級武士叔梁紇(しゅくりょうこつ)と、その内縁の妻徴在(ちょうざい)との間に生まれた。父は大力で斉(せい)との戦闘で武勲をあげている。孔子3歳のとき父が没し、倉庫番や牧場の飼育係をしながら学問に励んだので定まった師匠はない。当時の天下は下剋上(げこくじょう)の風が瀰漫(びまん)していた。諸侯は周(しゅう)の王室の権威をないがしろにし、諸侯の国では家老が主君をしのぐ。魯の国でも家老の三桓(さんかん)(季孫(きそん)、叔孫(しゅくそん)、孟孫(もうそん))が一国の実権を握っていた。魯の君の昭公(在位前541〜前510)は、三桓の専横を憤り、武力でこれを討とうとして失敗、斉の国に亡命した。36歳の孔子はこのときなぜか斉に行き、数年間斉にとどまる。43歳、定公(在位前509〜前495)が即位すると、孔子は魯に帰る。このころから子路(しろ)(季路)、閔子騫(びんしけん)らの弟子が集まり、孔子の名声が高まる。52歳、中都の宰(さい)(代官)となる。53歳のとき、夾谷(きょうこく)(山東省)で魯と斉との和平会議があった。斉の君は暴力で魯の君を脅迫しようとした。魯君の介添えの孔子は、逆に斉の君を叱咤(しった)し交渉を有利に導いた。54歳、魯の大司寇(だいしこう)(司法大臣)となる。翌年、孔子は三桓の勢力を削減しようと謀るが、露顕して失敗。以後14年間、曹(そう)(山東省)、衛、宋(そう)、鄭(てい)、陳(ちん)、蔡(さい)(以上河南省)、楚(そ)(湖北省)の諸国を流浪。孔子は、自分の理想の政治を実施してくれる君主を探し求めたのだが、どこへ行っても採用されず、ときには人違いで殺されかけたり、飢えたりした。69歳で魯に帰る。以後は政界に望みを絶ち、弟子の教育に専念する。弟子の数3000人。うち「六芸(りくげい)」(礼、楽(がく)、射(しゃ)、御(ぎょ)、書、数)に通じた者72人。孔子によれば、徳行には顔淵(がんえん)(顔回)・閔子騫・冉伯牛(ぜんはくぎゅう)・冉仲弓(ちゅうきゅう)、言語には宰我(さいが)・子貢(しこう)、政事には冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、文学には子游(しゆう)・子夏(しか)が優れる。74歳没。
[本田 濟 2015年12月14日]
孔子は六芸のすべてにかかわったとされる。すなわち『詩経』『書経』を編纂(へんさん)、「礼」「楽」を制定、『易経』を注釈、『春秋』を創作したという。このことは今日では疑われているが、これらの経典が旧中国で権威を有したのは、孔子の手になるという信仰のためである。孔子の死後、その弟子または再伝の弟子が孔子の言行録を編んだ。『論語』20篇(ぺん)がそれで、孔子の思想を知るための唯一の信用すべき資料である。
[本田 濟 2015年12月14日]
孔子は、乱世を治めるためには、周の初めの制度に復帰すべきだと考える。「周は二代(夏(か)・殷(いん))に監(かんが)みて、郁郁乎(いくいくこ)として文なるかな。吾(わ)れは周に従わん」(『論語』八佾(はちいつ)篇)。しかし、具体的に周初の制度がどのようなものだったのか、孔子はほとんど語ってはいない。孔子は、自分の理想とする統治形態をいにしえに託したらしい。孔子は、為政者は有徳者でなければならず、法律や政令による厳しい規制よりも、道徳や礼儀による教化こそが理想的な支配の方式だと考える。「これを道(みち)びくに政(まつりごと)を以(もっ)てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬか)れて恥なし。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥あり且(か)つ格(ただ)し」(為政篇)。
孔子は最高の道徳を「仁(じん)」とよび、幾人もの弟子にさまざまの説明を与えている。もっとも明瞭(めいりょう)なのは、燓遅(はんち)の問いに答えて「人を愛すること」といった定義である(顔淵篇)。キリスト教の博愛、仏教の慈悲に似ているようだが、親兄弟に対する骨肉の愛情――孝悌(こうてい)を中心として、遠心的に他人にまで及ぼすという点で、やや異質である。孔子のいう道徳による政治とは、孝悌による政治といってもよい。ある人に「先生はどうして政界に乗り出さないのか」と問われて、孔子は「親に孝行、兄弟仲良くすること、これも政治だ」と答えた(為政篇)。迂遠(うえん)なようであるが、旧中国の支配形態は、底辺の治安を郷党(きょうとう)の自治にゆだねることで、支配のための労力を節約してきた。家族道徳中心の儒教が、漢から清(しん)までの2000年間、支配のイデオロギーとして用いられた理由はそこにある。
孔子のころの人々は、呪術(じゅじゅつ)で神意をうかがい、それに従って行動するのが常であった。孔子は「民の義を務め、鬼神(きじん)を敬してこれを遠ざく」(雍也(ようや)篇)という。人間は良心の命令によってのみ行動すべく、神の意志によって行動すべきでない。そのために神々は、これを尊敬しながらも不可知(ふかち)のものとしてそっとしておけ、というのである。ここに思想史上の孔子の画期的な意味がある。
[本田 濟 2015年12月14日]
孔子は自分が聖人だといわれることを強く拒否していた。しかしその死後100年を経た孟子(もうし)などは、明瞭に孔子を聖人とよぶ。漢代、儒教が国教となると(前136)、孔子はいよいよ神秘的予言者扱いされ、前漢末には諡(おくりな)を贈られる(後2)。後漢(ごかん)以後、歴代王朝は、学校や孔子廟(びょう)に孔子とその高弟を祀(まつ)るのが常であった。しかし民国革命(1912)後、呉虞(ごぐ)や魯迅(ろじん)は、孔子を中国の封建的陋習(ろうしゅう)の根源として攻撃した。その論法は人民中国にも受け継がれ、1973年の「批林批孔(ひりんひこう)」運動で頂点に達したが、四人組失脚後は鎮静化している。
[本田 濟 2015年12月14日]
『和辻哲郎著『孔子』(1938・岩波書店/岩波文庫)』▽『白川静著『孔子伝』(1972・中央公論社/中公文庫)』▽『貝塚茂樹著『孔子』(岩波新書)』
中国,春秋時代の思想家。名を丘,字を仲尼といい,魯の陬(すう)(山東省)の生れ。その73歳の生涯は,周王朝の支配体制がくずれ,諸侯の対立抗争する春秋末の動乱期に過ごされている。当時,魯国でも君主の威権は地に落ち,季孫氏・孟孫氏・叔孫氏という3公族が政治を専断していた。さらに3公族のうちもっとも強力な季孫氏では,家臣の陽虎が権勢をふるい,下剋上の様相さえあった。
幼いとき父に死別した孔子は,貧困と苦難のなかに育った。青年時代,季孫氏に仕えて委吏(倉庫番),司職(家畜係)となったことがある。きわめて低い地位である。のち魯の定公に召されて中都(邑の名)の宰となり,やがて司空(農事の長官),大司寇(だいしこう)(司法の長官)に累進し,55歳のとき宰相の職務をも代行して,その治績は大いに見るべきものがあったという。だが3公族の横暴に義憤をいだき,改革をはかって失敗し,やむなく職を退いて亡命の旅にでた。衛,陳,宋,蔡,楚を漂泊すること14年,諸侯に遊説してまわったが,その徳治主義の理想を受けいれるには,諸国の政情はあまりに厳しく急であった。つぶさに辛酸をなめ,3度まで生命の危険にもさらされている。現実政治への強い執着にもかかわらず,けっきょく68歳のとき宿望むなしく祖国の魯に舞いもどり,以後は世を終えるまで,弟子の教育と研究に専念した。
もっとも弟子の教育,学園の形成は,すでに壮年時代から始められていた。だから諸国の歴遊にも,子路や顔回ら何人かの門弟がつねに行をともにしている。しかし,帰国してから没するまでの数年間は,まったく一個の民間教育家として余生を送った。〈弟子三千人,六芸に通ずる者七十二人〉と伝えられ,学問の普及に果たした役割には,はかり知れないものがある。
以上は,司馬遷の《史記》など主として前漢の初めの資料によった叙述で,いわば伝統的な孔子伝である。孔子が没してから《史記》の成立までには,約380年の歳月が過ぎており,この間に孔子の権威はしだいに上昇し,かなり大幅な潤色が加えられたもののようである。たとえば《史記》には,孔子が〈書伝・礼記(らいき)を叙し,詩を刪(けず)り,楽(がく)を正し,易の十翼を序し,春秋を作った〉とあり,六経(りくけい)をことごとく孔子の編集に帰している。だが《詩経》と《書経》に孔子が整理を加えたことは肯定できるものの,他の四経との関係は疑問とされる。また,魯の宮廷年代記ともいうべき《春秋》には,孔子の在世中,魯国の政権をにぎった季孫氏および孟孫氏や叔孫氏の名が頻出するのに,孔子の名は一度も現れない。孔子が大司寇となり宰相の職務を代行したのが事実ならば,当然その名とその活躍が記録されたはずである。《論語》にも孔子が高位に登って敏腕をふるった記事は見あたらない。《論語》に見えるのは,志を得ない,真摯な学匠としての孔子像である。
しかし,のちに学匠としての偉大さのうえに,世俗的な官位をも高められるようになった孔子は,前漢の初めに儒教が国教となった後,その権威はさらに飛躍する。とくに前漢の末から後漢になると,緯書と呼ばれる一群の書の出現によって,孔子の神格化が進められ,理性的な尊敬の対象から,宗教的な信仰の対象へと転じたことさえあった。孔子の人柄や思想を伝える,もっとも確実な資料は《論語》である。《論語》は孔子とその門人たちの言行や師弟間の問答などを集めたもので,約500の章から成り,使われている漢字の種類はぜんぶで1520字にすぎず,他の古典に比べて平易である。中国の歴史を通じて《論語》ほど広く読まれた書物はない。儒家の経典として尊重されたためでもあるが,《論語》自体に潜む魅力による点も少なくない。そこには現代からみて批判さるべき点もあるけれども,人間肯定の精神に即した人生の英知が,きわめて簡潔な表現で語られている。
孔子が理想の人物として思慕したのは,周の礼楽文化を定め,周王朝の基礎をきずいた,名宰相の周公である。直接に強い影響をうけたのは,孔子が30歳のころに没した鄭の子産--人間中心の立場,合理主義を力強く宣言した博学の政治家であった--とみられている。《論語》によるかぎり,孔子は常識人であり,凡人であったのではないか,と思われる。偉大な哲学者には常識を超えて,常識のかなたにある真理を発見した者が多いが,孔子は常識を超えるかわりに,常識の下に隠されている真理を発掘しようとした。偉大な凡人なのであろう。
常識人の孔子は超越的な神について語ることなく,また永遠の問題にも冷淡であった。その関心は現実の人生にいかに処すべきかにあり,理想は高邁に走らず,卑近な現実のなかに求めた。人間相互の愛情を重んじて道徳政治を説き,後世,儒家の祖と仰がれる。
→儒教 →朱子学
執筆者:日原 利国
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前551頃~前479
春秋時代末期の魯(ろ)の思想家。儒教の始祖。名は丘,字は仲尼(ちゅうじ),先祖は宋の公族という。魯に伝わる周の文物制度を学び,周公旦(しゅうこうたん)を理想の人物と敬慕した。54歳で魯の司寇(しこう)となり,国政改革に失敗し,衛,陳,蔡(さい),楚(そ)を巡遊したが,政治理念の実現を断念して魯に帰り,弟子の教育と,『詩経』『書経』など古典の整理に専念した。当時は古代中国社会の変動期で,孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復することに必要を感じ,そのためには個人の社会的道徳(仁)の修養が求められると考えた。彼の言行は死後弟子が『論語』に編集した。後世聖人と尊ばれ,子孫は歴代王朝から尊重され,保護を受けた。
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…しかし,緯書はほとんどすべて讖(しん)すなわち予占的な要素を含んでいるので,讖緯書とも呼ばれる。《隋書》経籍志によると,六経を編集して〈天人の道を明らか〉にした孔子は,後世の人がその真義を理解しえないのを恐れて,別に讖緯書を準備して,おのれの思想を託したという。これはもちろん非歴史的な付会で,孔子その人は天道や怪力乱神を語らず,神秘をしりぞけて人間の立場を貫こうとしており,緯書の発生にかかわりのあろうはずもなく,このことはすでに後漢の荀悦の否定するところである。…
…1898年(光緒24)刊。康有為は,孔子を六経の删述(さんじゆつ)者だとする伝統的な経書観を否定し,六経はみな孔子の制作であり,孔子はその時代を改革するために己の政治的理想にもとづき,古人のことばに託して六経を作り,その教えを広めたのだと主張した。彼の目的は,孔子を教主とする宗教としての儒教を蘇生させることにあったが,彼の古代史に対する懐疑的方法は,民国時代の疑古派の先駆となった。…
…中国,孔子および儒教に対する批判運動。前136年,漢の武帝が儒教を国定の教えとしていらい1911年に辛亥革命で清朝が滅亡するまで,儒教の祖である孔子は,中国における最高の人格として尊重されてきた。…
…それぞれの黄金時代を築いた創業の聖王たち,すなわち夏の禹王,殷の湯王,周の文王・武王・周公のときには,最も理想的な統治が行われていたとされる。たとえば孔子は,この三代の歴史の中に,人類が生み出した最も優秀な中国文化の展開を見,自分こそその本質を知るものと自認していた。そして将来の理想的な国家社会のイメージを,三代文化の総合として構想した。…
…例えば,前者の絶対点を強調したのが欧米のキリスト教文化圏であり,それに対して後者の媒介点を強調したのが日本を含むアジアの仏教文化圏である。
[孔子,仏陀,キリスト]
ところで,中国の孔子は〈われいまだ生を知らず,いわんや死においておや〉といって,死を未経験の領域に位置づけているが,インドの仏陀は死を涅槃(ねはん)ととらえ,永遠の生命にいたるための出発点と考えた。これに対してイエス・キリストは十字架上で犠牲になり,死んでよみがえった。…
…諸子百家の首位に立つ中国古代の思想集団。孔子を開祖として戦国期の孟子,荀子など原始儒家によって大きく思想形成を遂げた。先秦諸子のうちこの儒家と墨家が,活動的学派として最も組織的かつ活発であった。…
…荀子は儒家といわれ,商鞅は法家といわれる。このように戦国末には異なった思想がいくつもみられるが,その源流は春秋末に出た孔子である。西周王朝滅亡後,春秋時代を通じて,天を中心とする宗教意識が衰え,代わって人間が生得にもつ徳=仁(人間相互の親愛観念であり,その根本は親や上長に対する孝悌であるとされた)を完成するために修養が大切であると説いたのが孔子である。…
… 中国思想史上この仁に深遠な内容が付与されて重要な意味をもつようになったのは春秋時代前後からである。孔子が仁を自己の思想の核心を表現する概念として定立してより,孔子学派では〈人間らしさの極致〉を表徴する最高の徳目となった。仁の内容について孔子自身いろいろに説くが,〈己立たんと欲して人を立てる〉ことと説かれ,〈己の欲せざる所は人に施すことなかれ〉という〈恕(じよ)〉の精神をうちに含む愛を基本として,〈人を愛する〉ことと一般化される。…
…人間的現実的な経書にくらべて超越的・神秘的であるとか,五行相勝でなくて五行相生説に立ち(五行),従来,漢を水徳または土徳の王朝としたのに対して,はっきり火徳説を打ち出したとか,いくつかの特色が指摘されよう。が,思想史的にみて,その最大の意義は,伝統的な孔子観を改めて孔子を神格化したことであろう。 従来も儒家は孔子に対して最高の敬意を惜しまなかったが,それは人間として,理性的尊敬の対象としてであった。…
…そのなかでも任俠にもとづく交友を結び,世間を渡り歩く者を遊俠といい,とくに弁説をもって政治を動かそうと諸国を巡るものを遊説といい,一見仁者のような説をなして徒党を組み,権勢を握ろうとするものを遊行といった(荀悦《漢紀》)。その中で第1にあげるべきものは儒教をとなえた孔子で,みずから弟子をひきつれてつねに諸国に遊説し,東西南北の人といわれた。また戦国時代,列国の間を合従連衡を説いてまわった蘇秦も,つねに旅にあった。…
…しかし周も中期の春秋時代になると,天はしだいに人格神の性格が稀薄になり,天は〈天道〉という道・法則に転化し,非人格化が進行した。ついには孔子の〈鬼神を敬して遠ざく〉という言葉のように,宗教離れの傾向が著しくなった。ただ,その孔子が祖先崇拝を重視したのは矛盾のように見えるが,それは孔子が家族制度の維持強化を図るために,祖先崇拝のもつ現実的機能が必要不可欠であることを認めた結果にほかならない。…
…哲学もまたその例外ではなく多くの場合,道徳学・政治学の域にとどまることが多かった。
[古代]
孔子以前の文献としては《詩経》と《書経》があるが,そこには天が人格神・超越神として現れている。孔子はこの天を非人格化し内在化して,これを道とよんだ。…
…箱のなかに竹または木の棒を入れ,それに番号を記し,箱にあけられた穴からそのうちの1本をとり,その棒に記された番号によって,吉凶などを記した紙を寺社から受けとるというこの形式のくじの起源は中世をさかのぼらないようである。中世ではくじに孔子の字をあてることが広くみられた。また阿弥陀光(あみだのひかり)といい,阿弥陀仏の後光を描き,それをくじとして飲食の出銭高などを決める方法もあった。…
…礼は仁義礼智信の〈五常〉のなかに組み込まれている。孔子は〈礼を学ばないと人として立ってゆけない〉(《論語》季氏篇)と語ったし,弟子といっしょに礼の演習も行った。そもそも儒家の源流は礼(特に葬礼)の請負師だったといわれている。…
※「孔子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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