青銅(ブロンズ)で鋳造した像であるが,とくに記念碑的な彫像を日本では一般に銅像と呼んでいる。青銅の鋳造技術は古くから発達し,日本でも仏像彫刻などにすぐれた作品があるが,銅像という名称が使われたのは明治以後である。日本に洋風彫刻術をもたらしたのは,1876年工部美術学校開設のとき教師として来日したイタリア人ラグーザであるが,その門下生であった大熊氏広(1856-1934)が,現在も靖国神社にある《大村益次郎像》制作の依頼をうけた。大熊は83年原型制作に着手したが,銅像制作研究のためイタリアに留学し,完成したのは93年であった。また1890年には大阪の住友家が東京美術学校に《楠公像》の制作を依頼し,高村光雲を原型制作主任として,木彫原型から鋳造したのは93年であった。高村は《西郷隆盛像》の依頼をうけ97年に完成したが,これも木彫原型からの鋳造であった。このように明治20年代(1887-97)になって銅像彫刻の制作が盛んになったが,これはこの時期に国家体制の整備と並行して,大彫刻に対する社会的関心や需要がおこったためである。彫刻家はこれに応じることによって彫刻の社会的存在理由を示そうとした。その後,銅像は各地に設置されたが,第2次大戦中,武器弾薬の資材調達のため銅像の供出が盛んに行われ,戦後は供出を免れたものも多くが軍国主義的な彫刻として撤去され,銅像の数は激減した。戦後にも平和記念像などとして制作されているが,個人崇拝の気風が批判され,銅像の社会的基盤が弱まってきた。銅像の原型は木の場合もあるが石膏が多く,鋳造像においては原型制作者が作品の制作者とされる。
執筆者:三木 多聞
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広義には青銅(銅と錫(すず)の合金)で鋳造したいわゆるブロンズ像のことであるが、とくに屋外に設置される記念碑的な顕彰の像をいう。エジプトでは紀元前3000年ごろから木刻像にかわって、古代ギリシアでも前5世紀ごろから大理石像以上に、多くの青銅像がつくられた。しかし、後代にそのほとんどが鋳つぶされて、偶然発見された『ポセイドン』『デルフォイの御者』(ともに前5世紀)以外には現存するものは少ない。ローマ時代には現世的な肖像彫刻が盛んになり、『マルクス・アウレリウス帝騎馬像』のような本格的記念銅像がつくられた。偶像を排した中世を経て、ルネサンス期に銅像も復活し、『アウレリウス帝騎馬像』に倣った『ガッタメラータ将軍騎馬像』(15世紀、ドナテッロ)などがつくられ、以後広まった。
金銅仏の多くつくられた日本でも、個人の顕彰銅像は発達せず、ラグーザに師事した大熊氏広(1856―1934)の『大村益次郎(おおむらますじろう)像』(1893年完成、靖国(やすくに)神社)が嚆矢(こうし)とされる。以後、木彫原型の『西郷隆盛(さいごうたかもり)像』(高村光雲(たかむらこううん)作、1898年、上野公園)など、明治、大正期を通じて偉人、軍神の銅像が多く建立されたが、第二次世界大戦中にほとんどが供出され、その後復活すること少なく、現在は環境的彫刻にとってかわられつつある。
[三田村畯右 2018年9月19日]
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