江戸中期の儒学者。幼名は双松(なべまつ)、字(あざな)は茂卿(もけい)、通称は惣右衛門(そうえもん)、号が徂徠である。荻生氏の本姓は物部(もののべ)氏と伝えられ、中国風の一字の姓として、物(ぶつ)茂卿とも署名した。先祖は三河(みかわ)または伊勢(いせ)の武士で、祖父の代から医師となり、父方庵(ほうあん)(1626―1706)は徳川綱吉(当時は館林(たてばやし)藩主)の侍医であった。徂徠は寛文(かんぶん)6年2月16日に江戸で生まれたが、14歳のとき、父が綱吉の怒りに触れて江戸から追放され、一家は母の郷里である上総(かずさ)国長柄(ながら)郡本納(ほんのう)村(現、千葉県茂原(もばら)市)に移った。ここで農村の不自由な生活を体験し、また乏しい書籍を熟読して勉学したことが、徂徠の学問の基礎となった。25歳(一説では27歳)のころ、父が赦免されて一家は江戸に帰り、徂徠は芝の増上寺(ぞうじょうじ)の付近で私塾を開いたが、やがてその学力を認められて、31歳の1696年(元禄9)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に仕え、将軍綱吉にも接近する機会をもつようになった。柳沢家の臣として、『晋書(しんじょ)』など中国の史書の校注・出版や、また綱吉の伝記『憲廟(けんびょう)実録』の編纂(へんさん)などに従事し、その功績により禄高(ろくだか)500石にまで昇進した。この間、1709年(宝永6)に綱吉が没すると、幕府での権勢を失った主君吉保の配慮により、徂徠は藩士の身分のまま、藩邸を出て、江戸市中で自由な学者として活動することを許された。最初に日本橋茅場町(かやばちょう)に住んだので、その書斎を蘐園(けんえん)と称し、徂徠が牛込(うしごめ)などに転居したのちも、蘐園を号として用い、門人たちは蘐園社中とよばれた。
徂徠は早くから漢文を精密に読むことに努力し、辞書『訳文筌蹄(せんてい)』などの成果をあげていたが、40歳の前後から、明(みん)の李攀竜(りはんりゅう)、王世貞(おうせいてい)らが唱えた文学理論としての古文辞(こぶんじ)の影響を受け、中国古代の言語や文章の実証的研究を進めるとともに、この方法を経学すなわち儒学の古典の解釈学に適用して、古文辞学という新しい学風を樹立した。1714年(正徳4)に出版した『蘐園随筆』では、まだ朱子学の立場から伊藤仁斎(じんさい)の学問を批判していたが、1717年(享保2)の著『弁道(べんどう)』『弁名(べんめい)』になると、仁斎よりもいっそう徹底した朱子学批判を展開するとともに、「道」とは、先王(古代中国の帝王)が天下を治めるために作為した「礼楽刑政」すなわち政治制度のことであるとし、道徳よりも政治の方法に重点を置く独自の思想を主張している。こののち徂徠は、1721年に幕府から『六諭衍義(りくゆえんぎ)』に訓点をつけることを命ぜられ、まもなく将軍吉宗(よしむね)から間接に政治上の諮問を受けるようになった。この諮問に答え、幕府政治の改革案を述べた著書が『政談』である。吉宗には徂徠を幕府に登用する意志があったと伝えられるが、徂徠は享保(きょうほう)13年1月19日に病死したので、実現をみなかった。墓は長松寺(ちょうしょうじ)(東京都港区三田)にある。
著書はほかに『論語徴(ろんごちょう)』『学則』『答問書』、および法律に関する『明律国字解(みんりつこくじかい)』、兵学に関する『鈐録(けんろく)』など、多方面にわたっている。徂徠の性格は、学問上では細心であったが、対人関係では豪放で寛容であり、多様な個性の尊重を説くその教育論に基づいて、太宰春台(だざいしゅんだい)、服部南郭(はっとりなんかく)をはじめ、多くの優れた学者や文人を門下から輩出させることとなった。また、徂徠の独創的な学風や思想が、本居宣長(もとおりのりなが)らによる国学の形成に影響を及ぼしたとみられるのも、重要な事実である。
[尾藤正英 2016年4月18日]
『『荻生徂徠全集』全20巻(1973~ ・みすず書房)』▽『『日本思想大系36 荻生徂徠』(1973・岩波書店)』▽『『日本の名著16 荻生徂徠』(1983・中央公論社)』▽『岩橋遵成著『徂徠研究』(1934・関書院/復刻版・1969・名著刊行会)』▽『吉川幸次郎著『仁斎・徂徠・宣長』(1975・岩波書店)』
江戸の元禄・享保期の大儒。名は双松,字は茂卿,通称は惣右衛門,徂徠は号。将軍徳川綱吉の侍医荻生方庵の次男として江戸に出生。14歳のとき江戸払いに処された父に従い家族とともに上総国本納(母方在所)に移住。以後足かけ12年間を辛苦のうちに田舎で過ごす。《四書大全》などを読み大内流軍学を外祖父から学ぶ。のち許されて江戸に戻り舌耕生活を送る。1696年(元禄9)柳沢保明(のち吉保)に仕える。藩公用日誌の編纂,将軍綱吉から保明に預けられた小姓衆の教育に従事。また政治上の諮問にあずかり綱吉の学問相手も務めた(赤穂浪士処断時の献言は有名)。40歳のころ,李攀竜,王世貞の文集を入手,発奮して古文辞研究に志す。1709年(宝永6)吉保の隠居に伴い茅場町に町宅,家塾蘐園(けんえん)を開く。この前後に山県周南,安藤東野,服部南郭,太宰春台らが入門。ほかに僧侶や大名も門人に加わる。詩文の添削を請う者も多くなった。堀河学派(伊藤仁斎)や新井白石,室鳩巣らとライバル関係に立つ。正徳年間(1711-16)《訳文筌蹄》《蘐園随筆》を板行,一躍文名をはす。藩命のもと《憲廟実録》(綱吉一代記)編纂に当たり,その褒賞100石を加え500石となる。長年の儒典研究の最初の成果として17年(享保2)《弁道》を完成。以後数年間に《弁名》《論語徴》など経学上の主著をまとめた。21年将軍吉宗の下問に応じ《太平策》を献呈。また幕命により《六諭衍義(りくゆえんぎ)》に訓点を付す。官儒としての登用を内命されるも辞退。〈明律〉読解の仕事を高弟と進める。〈隠密御用〉の一環として26年幕政全般の改革にふれた《政談》を執筆献呈した。翌年吉宗に拝謁(陪臣として異例)。この年《徂徠先生答問書》《学則》を刊行,軍学書《鈐録(けんろく)》をまとめる。翌年1月死去した。
山鹿素行,伊藤仁斎らによる原始儒教への復古の流れをうけ,古文辞学によって儒教的観念を再解釈しつつ宋学(新儒教)に代わるべき独自の儒教体系を構想した。〈世は言を載せて以て遷り,言は道を載せて以て遷る〉。このように言語表現の歴史的変化に着目し,中国古代の文章(古文辞)で表現された儒典を正しく理解すべく,まず古文辞自体の客観的研究が必要だと喝破した。同じ立場から宋学,仁斎学を後世の〈今文〉にとらわれた主観的古典解釈にすぎぬと批判。この面はやがて本居宣長によりみずからの《古事記》研究を導く方法理念として継承された。内容面では自然秩序,社会秩序,人間性の三次元を同一の〈天理〉=〈道〉が貫くと考える宋学に対し,聖人が〈人性〉に即して立てた礼楽制度=〈道〉による〈安民〉の実現を儒教の眼目ととらえた。かくて〈修身〉は被治者の信頼をかちとるべくそれが必要だという見地から政治的に把握された。詩は人間の自然な性情の発露であり,その学習は人間理解を深め統治に有用だから(勧善懲悪という道徳的目的のためでなく)《詩経》が経典とされているのだとされた。仁斎学の中心をなす〈道徳〉理念は,こうした儒教の政治化によって一蹴された。同時にこの制度による人民の秩序づけの論理は〈其人ノ内面ハ如何ニト問ハズ〉とする春台学をうみ〈道〉の外面化を促した。その延長線上に〈覇道〉を積極的に説く海保青陵,さらに内外両面の峻別に立ち近代的な政教分離を説く西周が現れる。
ただし徂徠思想自体はあくまで過渡的な様相を帯びていた。(1)社会を碁盤の目のように仕切り最小単位=村落共同体を在地領主の相当程度の自律的支配下におく(井田法)。(2)同時に全国的な解決を要する問題に関しては礼楽刑政の体系を制定して上から統一的に処理する。統治論におけるこうした二重性は人性論にも反映し,(1)普遍的な人間性として〈相愛相養相補相成之心,運用営為之才〉を認めつつ,他方(2)個性の尊重(〈性は人々に殊なり〉)と多様性における統一の立場を組織原理として強調した(〈和而不同〉の解釈)。これらの二重性は徂徠学が村落共同体的人間結合という伝統的原理と,社会秩序の人為的創出という近代的原理との双方に立っていたことを示している。貨幣経済の浸透とそれに伴う社会的流動化の高まりによって現出した武士支配の危機に対し,彼が人民の土地への繫縛,武士土着化,商業抑制など,ラディカルなしかし復古的な改革をもってこたえんとしたことはこの点と無縁でない。他面徂徠は元禄文化の風潮をもうけて〈君子〉のたしなみとして風雅文采を重視した。この面は当時の全般的な生活文化水準の上昇を背景として,政治から韜晦(とうかい)し詩文という仮構の世界に賭ける一群の弟子たちをうみ出した。服部南郭に代表されるこの傾向の系譜上に,ある種の反語的精神をもった大田南畝らの文人が江戸後期に輩出する。こうして独創的な方法論と古典解釈によって17世紀後半以降の宋学批判を完成させつつ,他方18世紀中葉以降の春台学,宣長学,後期文人への展開を用意したのが徂徠であった。徳川思想史の転回点に立つ巨人といってよい。
→徂徠学
執筆者:平石 直昭
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1666.2.16~1728.1.19
徂来とも。江戸中期の儒学者。父方庵は上野国館林藩主時代の徳川綱吉の侍医。通称惣右衛門,名は双松,字は茂卿(しげのり),徂徠は号。江戸生れ。父と上総国に流浪し25歳のときゆるされて帰府。講義などで生計をたてる生活ののち柳沢吉保に仕え,将軍綱吉の学問相手などを勤めた。赤穂浪士処断など政治上も献策している。当初,朱子学を修めたが,唐音学習も始め,40歳頃から古文辞学を提唱し,詩文革新に努力。1709年(宝永6)藩邸を出て私塾蘐園(けんえん)を開く。堀川(古義)学派や新井白石らとはライバル関係にあった。門人らと経典解釈の仕事を進め,やがて独自の体系を樹立。その学派は蘐園学派・古文辞学派とよばれる。語学に「訳文筌蹄(せんてい)」,経学に「蘐園随筆」「弁道」「弁名」「論語徴」など,幕政改革の献策に「太平策」「政談」,刑律兵書に「明律国字解」「鈐録(けんろく)」,漢詩文集に「徂徠集」などがある。
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…早くから江戸に出て儒学を学び,柳沢吉保に仕えた。同じく柳沢家に仕えていた荻生徂徠に1706年(宝永3)ころ入門し,以後徂徠が儒学界に名声を確立してゆくのをかたわらにあってよく助けた。山県周南と並んで徂徠のもっとも古くからの門人で,やがて18世紀中期に全盛期を迎える古文辞派(徂徠学派)の漢詩人たちの先輩格に当たる。…
…この文学観の影響のもとに,仁斎の学塾古義堂の門人たちやその周辺の人々,仁斎の長子伊藤東涯,伊藤担庵,宇都宮遯庵(とんあん),鳥山芝軒(しけん)などが,前代よりも自由な詩文活動を展開した。 享保期(1716‐36)に入って,江戸の荻生徂徠が仁斎学よりもさらに徹底した反朱子学の儒学説(徂徠学)を唱える。徂徠学では,儒学で追求する道とは天下を治める政治の道であって,道徳にはかかわらないと説いたため,人の内面は完全に儒学の拘束から解放されることになった。…
…それとともに,ロシアの南下を先ぶれとする西洋列強による〈外圧〉への評価と対応も,敏感な経世家には早くからみられた。
[先駆――蕃山,徂徠など]
熊沢蕃山(1619‐91)と荻生徂徠(1666‐1728)は,それぞれの異質性はありながら,経世済民論の先駆者とみてよい。君臣関係はもとよりいっさいの人間の道徳的関係を〈自然の理〉として絶対化し,富への欲望を封建道徳ときびしく対立させた官製の朱子学に対し,蕃山は〈仁政ヲ天下ニ行ハン事ハ,富有ナラザレバ叶ハズ〉〈人君仁心アリトイヘ共,仁政ヲ不行バ徒善(むだ)也〉と述べ,富・人君のあり方を既成の規範から解放した。…
…1巻。荻生徂徠(蘐園は別号)とその門人太宰春台,服部南郭,平野金華らの言行を記録した書。徂徠の博大で思いやりの厚い人柄のもとで,門人たちが個性豊かにのびのびと活動した様子が,多くのエピソードを通じて具体的に描かれており,江戸中期の思想史上,文学史上に大きな足跡を残した徂徠一門の実態を伝えている。…
…中国において,古代より論議され続けてきた対立的命題。江戸期の荻生徂徠は次のように明解に定義する。〈公なるものは私の友なり。…
…《周易》繫辞上の〈擬議して以て其の変化を成す〉が,模擬を主張する根底の理論となっている。江戸時代に荻生徂徠が李攀竜に心酔して,その古文辞を紹介し,李攀竜編と伝えられる〈唐詩選〉を流行させた。李攀竜らは文学の理想のすがたとして古文辞を唱導したが,徂徠は古文辞を修得した後に経書の理想に迫り,礼楽刑政の各方面において,それを究めて,政治に実現することを目標とした。…
…江戸前期では,仏教を虚学とし,儒教とくに朱子学を実学と考えた林羅山,中江藤樹らによれば道徳的実践,人間的真実の追求こそ実学と考えられた。古学派があらわれるに及び,山鹿素行は日常生活における道徳的実践と結びついた学問を実学とし,荻生徂徠によると歴史学にみられる事実に即した学問のなかに実学は成立すると考え,価値判断から自由な事実認識の上にたつ実証的な学問こそ真の学問であるとして,従来の道徳的実践を中心におく学の大変革を行った。 徂徠以後,実学思想は一変した。…
…江戸幕府の支配体制に弛緩を生ぜしめている根本的原因を指摘し,当面の対策を論じて,8代将軍徳川吉宗に呈した意見書。荻生徂徠著。4巻。…
…1巻。著者は荻生徂徠と伝えられるが,今日に至るも異論があり確定せず,成立年代も明らかでない。内容は聖人の道が治国安民の道たることを強調して,礼楽制度の確立を論じ,当時の困窮を救う方法として武士町人の土着帰郷を説くところは《政談》と類似している。…
… 一面において徳の包括性が分化してゆき,他面,徳が儒学の古典を離れて言葉として自立してゆく過程が,その後に生ずる。荻生徂徠は,〈仁義礼智〉の全体を徳とする仁斎に反して,〈仁智〉のみが徳であり〈礼義〉は道の名であるとした。そう見る背景には次の徳の定義がある。…
…荻生徂徠の著書。1717年(享保2)7月成稿。…
…
[日本での研究]
満州語・満州文字の知識は,日本にも江戸時代初期から入り,満州文字で書いた千字文を付録につけている《千字文註》という書物も入り,日本でも復刻された。荻生徂徠は《満文考(満字考)》を著し,満州文字の構成をわかりやすく示そうとした。1804年(文化1)にロシアの使節N.P.レザノフが長崎に持参した国書は満州語でも書かれていた。…
…中国,明代の基本法典を日本語で解説した書。荻生徂徠(おぎゆうそらい)の著。16巻。…
…荻生徂徠の著。6巻。…
…荻生徂徠(1666‐1728)の著した《論語》の注釈書。10巻。…
※「荻生徂徠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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