日本歴史地名大系 「怡土庄」の解説
怡土庄
いとのしよう
現前原市、
〔領主の変遷〕
当庄は大治五年(一一三〇)鳥羽上皇中宮の待賢門院璋子から同年建立された法金剛院に寄進されて成立したと考えられる。本家は法金剛院を管理する璋子で、娘上西門院統子内親王―姪宣陽門院覲子内親王へと伝領され、承久の乱で鎌倉幕府に没収されたが宣陽門院に戻され、鷹司院長子―後深草上皇―伏見上皇と以後は持明院統に伝領された(貞応三年以後と推定される「宣陽門院所領目録」島田文書/鎌倉遺文五など)。久安元年(一一四五)法金剛院は待賢門院から子の仁和寺御室覚性法親王に譲られ(「仁和寺御伝」同年八月条)、領家職が成立し以後京都仁和寺に伝領されたが、文明(一四六九―八七)頃には当庄支配は不可能となっていた(文明一〇年八月日「仁和寺領文書目録」仁和寺文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書))。地頭職は治承・寿永の乱に際し置かれたが、文治四年(一一八八)三月、当庄を伝領していた藤原能盛(後白河院の北面の武士、預所か)は地頭の停止を訴え(「吾妻鏡」同年四月一二日条)、建久三年(一一九二)に認められた(八月二七日「守覚法親王御教書」仁和寺文書/鎌倉遺文二)。承久の乱ののち地頭職が再設置され、北条氏に与えられ、のち怡土方(稲吉方を含むか)が一族の大仏氏に(建武四年一二月二八日「足利尊氏下文」大友文書/南北朝遺文(九州編)一)、また弘安九年(一二八六)一〇月二八日には当庄の志摩方三〇〇町(友永方を含むか)の惣地頭職が文永・弘安の役で少弐経資と並んで指揮にあたった大友頼泰に与えられた(嘉元三年八月二日「鎮西下知状」大友文書/鎌倉遺文二九など)。建武四年(一三三七)には大仏惟貞分の怡土庄(怡土方・稲吉方か)地頭職が大友氏泰(頼泰の曾孫)に与えられ(前掲足利尊氏下文)、貞治三年(一三六四)大友氏時(氏泰の弟)は当庄および当庄志摩方の(同年二月日「大友氏時注進状案」大友文書/南北朝遺文(九州編)四)、永徳三年(一三八三)大友親世(氏時の子)は当庄の当知行を注進している(同年七月一八日「大友親世注進状案」同文書/南北朝遺文(九州編)五)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報