鎌倉後期,モンゴル襲来に備え,筑前,長門などの要害に交代勤番し,警固に当たった役。主として九州の御家人および九州に所領をもつ御家人が筑前国博多湾沿岸一帯の警備を分担した番役をさすが,出雲国分担の筑前国黒崎地方の警固,山陽・南海道諸国分担の長門国警固番役もある。準戦時の番役として主要な御家人役の一つであるが,その性格上地頭御家人以外の一般荘園公領の荘官以下住人(非御家人)にも賦課されている。番役の発端は1271年(文永8)9月,幕府がモンゴル襲来に備えて九州に所領をもち,しかもその地に居住せぬ御家人に対して自身または一族等の下向を命じて防御の任につかせ,また72年2月には九州在住の御家人に対して九州居住の守護少弐,大友氏らの指揮下に筑前,肥前の要害警備に当たるよう命じたのがはじまり。74年の第1回襲来後,その戦訓を生かし勤番制度も整備された。75年(建治1)2月の結番によると,筑前・肥後,肥前・豊前,豊後・筑後,日向・大隅・薩摩のように9国を4番に分け,春夏秋冬の各3ヵ月ずつ順次務める制規であった。しかし翌年博多湾沿岸一帯に石築地(いしついじ)が国別分担で築造され,修理の受持場所も定められるにしたがい,警固番役の勤務場所も香椎が豊後,筥崎(はこざき)が薩摩,博多が筑前・筑後,姪浜が肥前,生,松原が肥後,今宿が豊前,今津が日向・大隅と国別に固定することになり,各国ではそれぞれ地頭御家人を3番ないし6番などに結び,1ヵ月ないし3ヵ月ずつ交代勤務させることになった。その後1304年(嘉元2)には九州を5番に分け,1番は筑前,2番は大隅・薩摩,3番は肥前などのように各番それぞれ1年間の勤番と改められ,制規は弛緩しながらも幕府滅亡まで存続した。勤番は守護の統率下に行われ,守護は催促状と覆勘状(勤仕終了証明書)を発出している。幕府もその負担の軽減をはかり,警固番役を務める御家人には京都大番役,鎌倉大番役など他の所役を免除している。しかし一族内で負担配分をめぐる惣領・庶子間の争いや,独立勤仕を求める庶子とそれを抑止しようとする惣領との争い,東国御家人の西遷と所領への定住に伴い在国御家人・非御家人との間の争いが頻発するようになる。幕府も鎮西談議所,鎮西探題を設置して彼らの統制と紛争の処理に当たらせることになったのである。
執筆者:五味 克夫
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鎌倉時代後期、蒙古(もうこ)(元(げん))軍の襲来に備えて、筑前(ちくぜん)(福岡県)、長門(ながと)(山口県)などの沿岸を交代で警備する軍役。1271年(文永8)幕府は九州に所領をもつ御家人(ごけにん)に下向を命じ、九州在住の御家人とともに防御の任にあたらせたが、その指揮は九州在住の守護少弐(しょうに)、大友(おおとも)氏らがとり、おおむね1番1か月の勤番であった。1274年(文永11)の第1回の襲来(文永(ぶんえい)の役)後、その戦訓を生かし、勤番制を整備、75年(建治1)の結番では鎮西九国を4番に分け、1番3か月あての勤番とした。しかし博多(はかた)湾沿岸を中心に石築地(いしついじ)を造営するとともに警固の受持ち区域が国ごとに固定し、各国ともそれぞれ御家人を3番または6番に結び、毎年交代勤務させることになった。1281年(弘安4)の第2回の襲来(弘安(こうあん)の役)後、制規はしだいに緩み、1304年(嘉元2)には九州を5番に分け、1番が筑前、2番が大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)(鹿児島県)というように、番ごとに1、2国あて一年中勤番することになった。鎌倉幕府滅亡まで存続。非御家人も勤番の催促を受け、負担の配分をめぐり一族間の相論の原因にもなった。なお長門国要害警固番は山陽・南海道諸国御家人の分担であった。異国警固番役勤仕の御家人は京都・鎌倉大番役(おおばんやく)免除の措置がとられた。しかし、その負担は重く、御家人窮乏の一因となった。
[五味克夫]
『相田二郎著『蒙古襲来の研究』(1958・吉川弘文館)』▽『川添昭二著『蒙古襲来研究史論』(1977・雄山閣)』
鎌倉幕府が元軍の侵攻に備え,九州北部と長門国の沿岸部の防備を固めるために編成した番役。これを勤めると,京都・鎌倉の番役が免除された。はじめは御家人のみで編成,のちには非御家人にも拡大され,幕府の権限が西国の本所一円地にも深く浸透する結果となった。1271年(文永8)九州諸国に所領をもつ御家人に,下向して防備にあたることを命じたのが始まりで,翌年2月には東国御家人の下向を待たず九州諸国の御家人に守護の指揮に入って防備につくことを命じた。75年(建治元),国単位で3カ月を1期とした編成を定めたが,翌年には石築地(いしついじ)の構築が始まり,国単位で地域を定める方式に改められた。1304年(嘉元2)には国単位で1年を1期とする編成に改められ,鎌倉幕府滅亡にいたった。
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…築造には所領1段(約992m2)につき長さ1寸(約3cm)という基準があり,その石材としては,近辺の砂岩,花コウ岩,ペグマタイト(巨晶花コウ岩),玄武岩などが使われている。この石築地を築造・修理する課役を石築地役といい,石築地を警固する課役を異国警固番役と称した。石築地役は,守護の命令で,主として九州の御家人によって担われ,負担分の築造が完了すると,石築地役覆勘状という証明書が守護によって発行された。…
…この大番役の負担は時代と所領規模によって異なるが,中期には12番編成,1番6ヵ月勤務が原則であった。御家人の公的負担は主として警固番役の形式をとり,番役としては,ほかに,東国御家人がおもに勤めた鎌倉大番役(12番編成,1月勤番),蒙古襲来を機に新設された九州の武士の異国警固番役(4番編成,3月勤番),中国地方の御家人が主となった長門警固番役などがあり,また西国に所領をもつ特定の御家人は在京人として京都に常住し,六波羅探題の指揮下で篝屋(かがりや)番や大楼宿直(たいろうとのい)番などを勤めた。また東国の由緒ある特定の御家人は原則として鎌倉に常住し,小侍所に属して宿直番(小侍番・小番,6番・1日1夜勤務)を勤め,近習番,申次番,廂(ひさし)番,格子上下番などの御所内諸番役に当たった。…
…肥前国御家人は御家人役勤仕(ごんじ)の際には守護に率いられて勤仕しているが,1222年(貞応1),27年(安貞1),38年(暦仁1)に京都大番役を勤仕したことがわかる。しかしモンゴル襲来の危機が迫ると,御家人はモンゴル襲来に備えて異国警固番役に従事することになり,京都大番役は免除された。 74年10月,対馬(つしま),壱岐(いき)を襲ったモンゴル軍は松浦地方沿岸にも来襲し,松浦党をはじめ肥前国住人はこれと戦ったと思われるが,その詳細は明らかではない。…
…幕府はまた,元の再襲に備えて中国や九州の防備を強化した。同年2月すでに異国警固番役(いこくけいごばんやく)の制度が整備され,1年のうち3ヵ月ずつを九州の各国が分担して博多を守ることになった。翌76年3月ごろから博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の築造が開始された。…
※「異国警固番役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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