藤原璋子。鳥羽天皇の皇后,崇徳天皇,後白河天皇の母。権大納言藤原公実の女。1117年(永久5)12月入内して女御となり,翌年(元永1)1月立后して中宮職を付された。24年(天治1)11月待賢門院と女院号を宣下され,30年(大治5)10月落飾,法名は真如法と号し,45年8月に没した。45歳。女院は幼時より白河上皇に愛育され,上皇の猶子として鳥羽天皇の後宮に入ったが,関白藤原忠実の嫡子忠通との婚約を破棄しての入内であったらしく,忠実はこれを不快とし,のちその女泰子(高陽院(かやいん))の入内問題に尾を引いた。その後も白河上皇は,京都近郊の社寺はもとより,このころ盛んになりはじめた紀州熊野詣に女院を同伴するなど,女院に対する寵愛は入内以前と変わらず,それだけに女院の勢威は時人の目をみはらせるものがあったが,治天の君であった上皇の没後,その勢威は急速に衰えた。
執筆者:米田 雄介
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→藤原璋子
…991年(正暦2)9月一条天皇の生母皇太后藤原詮子が病により出家したため,出家後の詮子の処遇が問題になり,皇太后を止め,改めて東三条院の院号を宣下し,太上天皇に准ずる待遇を与えたのが初例である。以後,1850年(嘉永3)2月,孝明天皇の生母藤原雅子が新待賢門院の院号を宣下されるまで,詮子も含めて女院号を授けられた者は107名(このうち2度院号宣下を被った者があり,院号例は108)である。 院号宣下は,初例の東三条院の場合は出家による后位の停廃に基づき,第2例の太皇太后藤原彰子も1026年(万寿3)1月出家により上東門院の号を授けられたが,第3例の禎子内親王が陽明門院の女院号宣下を被ったのは1069年(延久1)2月で,すでに出家から二十数年を経ており,以後,出家と女院号宣下は必ずしも関係はなくなった。…
※「待賢門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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