日本大百科全書(ニッポニカ) 「戴逵」の意味・わかりやすい解説
戴逵
たいき
(?―395?)
中国、東晋(しん)の文人。字(あざな)は安道。譙(しょう)郡の銍(てつ)(安徽省宿県)の出身。幼少のころ白瓦のくずと鶏卵の汁を混ぜ合わせたもので小碑をつくり、漢の鄭玄(じょうげん)の碑をつくったが、その詞句や書や塑造の美しさは人々の評判となった。また十余歳のとき、瓦官寺(がかんじ)の壁画を描いて名声を博したが、画は范宣(はんせん)に師事し、書画・彫刻はもとより、琴(きん)の名手でもあった。また自由な思想家として、会稽(かいけい)に隠遁(いんとん)して終世官途につかなかったといわれている。とくに注目されるのは、仏像の制作に創意工夫を凝らしたことで、従来の素朴、古拙な仏像様式を一変させた。彼の多才さは、その子、戴勃(たいぼつ)、戴顒(たいぎょう)に受け継がれた。戴勃の山水画は顧愷之(こがいし)に勝り、戴顒は仏像の制作に新風を打ち出し、ともに東晋末より劉宋(りゅうそう)初期に活躍したといわれている。
[吉村 怜]