〈塑〉は粘土を意味し,塑造(クレー・モデリングclay modelling)は粘土で造形する技法をいう。これによってつくられる彫刻が塑像である。彫刻の技法は大別して,木彫や石彫など材料から形を彫り出すカービングcarvingと,粘土などの素材をくっつけて自由な形をつくりだすモデリングmodellingに分かれる。塑像には,最終的にブロンズ(青銅)その他の材料で仕上げられる作品の原型として製作される場合,また単なる習作として,あるいはそれ自体を目的として製作される場合がある。粘土の入手のしやすさ,可塑性,技法の単純さのため,塑造は彫刻の歴史において最初の,そしてもっともよく使用される手法である。材料としての粘土は,おおむね花コウ岩中の長石質の風化分解した天然産のもの,酸化亜鉛にオリーブ油その他の成分を配合した油土,あるいは化学製品としてのプラスチック粘土などがある。技法的には,単に粘土をこね上げ肉付けすることによってつくる小品と,各種の骨組み,鉄,木材,しゅろ縄,ワイヤなど軟らかい粘土を支えるための心棒を用いた作品とがある。いずれの場合も,指,掌,手の触覚によって造形されるが,へら類も補助用具として用いられる。塑造の歴史は旧石器時代までさかのぼり,土器文明期には,日干しあるいは素焼きの手法によって偶像,動物像が多く製作された(テラコッタ)。泥塑像は,インド,中国,日本でも用いられた手法で,火による乾燥過程なしに空気乾燥で最終作品となっている。しかしこのようなテラコッタ,泥塑像としてではなく,習作,模型,原型として用いるのが近代では一般的である。粘土の原型からセッコウがつくられ,さらに金属鋳造される場合,あるいは粘土なりセッコウの模型から〈星取りpointing〉の技法によって石材などに形を写し彫刻される場合がある。直接に木材,石材などに刻む手法と粘土から出発する場合との間には,かなり表現形式の差が生まれる。外側から内側へとイメージを模索し,硬い材質の線と滑らかさを見いだそうとする態度と,指や掌のあとを残し,内から外へと造形することによって肌の表現性を求める態度の差である。一人の彫刻家にその双方の見られる場合が多いが,ロダンなどは後者である。
執筆者:中山 公男
仏像が初めて製作された北西インドのガンダーラでは,3~5世紀ころに石仏とともに塑像が多くつくられた。同期の遺品が隣接するアフガニスタンのハッダ,カーブルから多く出土しており,これらは粗い土の上をしっくいを混ぜた細かい塑土で整えたスタッコの技法で製作されている。良質の石材が得難い中央アジアでは塑造の仏像が多くつくられ,石製の芯の表面に塑土を盛った石胎塑像やスタッコ像が,東トルキスタン各地の4~5世紀ころの仏教遺跡,ミーラーン,ビハーラ,トゥムシュクなどから出土している。
中国では金銅仏,石仏などとともに塑像製作が早くから行われ,特に石質の悪い地域の石窟寺院の彫刻は塑像が中心であった。甘粛省炳霊寺石窟の420年(西秦建弘1年)製作の如来形立像が遺品として知られる古例で,以後5世紀前半ころから各時代を通じて敦煌莫高窟,麦積山石窟などで連綿と塑像の製作が続いた。敦煌塑像の技法は大略,木製の心木に手近に得られる植物を束にしたものを麻縄で巻きつけ,その上に1~3層の塑土を盛って表面に彩色を施す。隋,唐代には洛陽,長安においても盛んに製作され,それらとともに塑土によって壁面に浮彫状の山水樹木などを構成した〈塑壁〉がつくられた。唐代,8世紀前半には塑壁製作の名手とされる楊恵之が出て,中原の寺院に多くの名作をのこしたという。朝鮮半島では三国時代の6世紀に塑像が製作されたといい,7世紀には丈六像をはじめその製作を伝える文献がある(《三国遺事》ほか)。遺品は多くないが,百済の故地である忠清南道聖住寺などから小型のものが出土している。
日本では7世紀中ごろ創建といわれる四天王寺塔内につくられた霊鷲山像が塑造であったと推定され,これが文献上の初見である。遺品としては667年(天智6)以前に創建された奈良県川原寺の裏山遺跡から,創建時のものかと思われる塑像断片が出土し,その中には丈六像の断片が含まれている。この7世紀後半ころに本格的な塑造技法が大陸から伝わったと思われ,以後8世紀にかけて製作が盛んに行われた。製作年代のわかる遺品として,681年(天武9)ころ完成の当麻寺弥勒仏像,711年(和銅4)の法隆寺五重塔塑像群,同中門仁王像,天平年間(729-749)製作の新薬師寺十二神将像などがあり,他に8世紀の遺品として,東大寺三月堂執金剛神像,日光・月光菩薩像,同戒壇堂の四天王像,法隆寺食堂の梵釈四天王像などがある。
奈良時代には塑像は摂(しよう),埝(てん)と呼ばれ,その技法は心木の上に粗いものから細かいものへと,塑土を2~3層に分けて塑形し,彩色することではいずれも共通しているが,像によって心木の構造はさまざまである。すなわち小型の法隆寺五重塔塑像(像高20~50cm)では,座板の上に比較的単純な形の柱状の角材を1本立てて心木とし,腕,指など細部は銅線などを芯に用いる。大型の法隆寺中門仁王像(像高330cm)では,左右の脚部に各1本,腰から頭部に1本,計3本の中心となる心木を組んで,これに各種の小材を用いて胴,脚,衣などの外形にそったふくらみをとりつけて内部を空洞状にし,その上に塑土を盛る。法隆寺食堂梵天・帝釈天像(像高108.4cm)では,足指などの細部までを彫出したクスの一材を心木とする。
塑像は安価に作りうることが長所であるが,材質が脆弱でその割に重く,仏像製作の素材としては本来すぐれたものではない。平安初期には少数の遺品があるが,平安後期には木彫像の削りすぎの修整として部分的に塑土を用いた例や,栃木県大谷磨崖仏に見られる凝灰岩を彫出した表面に塑土で細部を塑形した例があるものの,本格的な塑像の製作は知られない。鎌倉末期から室町時代にかけて,石山寺淳祐内供像など肖像彫刻に塑造作品が知られるが,これらは当時の中国の影響を受けた一時的な流行であったと思われ,奈良時代に隆盛した塑像は平安時代以降は造像の主流とはならなかった。
執筆者:副島 弘道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
塑土(そど)による造像技法で,心木に藁縄などを巻いてひっかかりを作ったうえに数層(だいたい2~3層)の塑土を粗いものから細かいものへと順に着せて造る。日本には乾漆造とともに7世紀半ば過ぎに輸入され,川原寺裏山出土の断片類や当麻寺(たいまでら)弥勒仏像(7世紀後半)にみられるような初唐様式による造像が行われた。法隆寺塔本塑像(711年)にはすでにきわめて練達した塑造技法がみられる。天平時代には官営造仏所により東大寺日光・月光(がっこう)菩薩像や戒壇院四天王像のような名品が造られる一方,この時代の仏教の地方普及にともなう豪族クラスの氏寺での造像も,多くが塑造だったとみられる。9世紀に入ると用いられなくなったが,鎌倉時代に再び中国の影響により一部で行われた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…石,粘土,金属,ガラス,木材,乾漆,象牙,蠟など,およそ立体的造形に適応するすべての材料が利用され,近代・現代では,合成樹脂,鉄材その他が利用される。これらの材料の種類と用途に応じて多種多様な専門技法が用いられるが,基本的な技法は,こね上げること,刻むこと,構成すること,つまり塑造,彫刻,構成の三つに分類される。 すでに旧石器時代の作品に,塑造的造形plastic,mouldingと彫刻的造形glyptic,carvingの2種類が見いだされる。…
※「塑造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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