デジタル大辞泉
「吉村」の意味・読み・例文・類語
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出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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吉村
よしむら
[現在地名]宮崎市吉村町・大王町・一の宮町・潮見町・田代町・昭栄町・中西町・曾師町・新城町・青葉町・大和町・宮脇町・昭和町・小戸町・日ノ出町・稗原町・新栄町・港
新別府村の西から南にかけて位置し、大淀川下流北岸に立地する。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に本庄八幡(現国富町)領と記された「吉村東方之内たけ下弐反」は当地のことか。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳に那珂郡の内として吉村一五町とみえる。天正一六年周辺諸村と同様に高橋元種領となったとみられるが、同年八月四日の日向国知行方目録にはみえない。
吉村
よしむら
[現在地名]玉川村吉
阿武隈高地の西縁丘陵地帯に位置し、中央部に僅少の平坦地がある。北端を玉川(現在の泉郷川)が西流し、西は川辺村・小高村。寛保元年(一七四一)に上吉村・下吉村に分村。永和三年(一三七七)一一月九日の沙弥某奉書案(白河古事考)によると、「吉村」の当知行が石川安芸入道に安堵されている。明徳五年(一三九四)大寺安芸入道道悦(光義)は吉村をめぐって竹貫光貞と相論となったが、これに勝訴した(同年七月一日「吉良貞家書下案」白河証古文書)。
吉村
よしむら
[現在地名]長野市大字吉
北国脇往還に沿う集落。東は長峰山で石村・南郷村(現上水内郡豊野町)と、西は三登山(九二三メートル)の山腹で地蔵窪村(現上水内郡牟礼村)と、南は田子池及び山千寺道で田子村と、北は髻山(七四四四メートル)の山腹で石村と接する。
嘉暦四年(一三二九)の「諏方上宮五月会付流鏑馬之頭・花会頭与可為同前御射山頭役結番之事」とある鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「大田庄内大倉・石村・吉村」とみえるように、中世は太田庄内に属した郷村であった。
吉村
よしむら
[現在地名]落合町吉、久米郡旭町西
田原山上村の南東に位置し、南は備前国江与味村(現旭町)。西方を南流する旭川には神田瀬・貝原瀬・須々岐瀬などの瀬があり、舟六艘を有した(作陽誌)。南部は山地で、中央部が谷となっている。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村書(肥塚家文書)に吉村とみえる。寛永七年(一六三〇)の森忠政宛行状(黄薇古簡集)で、当村のうち五三石が上坂主馬に与えられた。
吉村
よしむら
[現在地名]鳳来町富保
南は長篠村、西は横山村(現新城市)、北は大草村。大草村との境にある標高四四三メートルの千寿ヶ峰の南側の扇状地は、標高一四〇メートルの盆地をつくる。ここの集落を本村といい、大井川右岸の集落を荒井とよぶ。天正一八年(一五九〇)岡村・大草村とともに吉田藩領、慶長五年(一六〇〇)徳川氏領、同七年鳳来寺領となって明治に至る。
長篠城を築いた菅沼元成の子孫、正貞の叔父、弾正左衛門貞俊は当村に住み、天正元年ここで没したと伝える。
吉村
よしむら
[現在地名]寺泊町吉
北は大地村、南は引岡村、東は枝郷の本山新村、西は丘陵を隔てて寺泊町。沖積平地が深く丘陵に入込んだ谷の両側に発達した集落。枝郷には本山新村のほかに弁財天新村がある。正保国絵図に高一四六石余で幕府領。慶安二年(一六四九)村上藩領となって以降の支配は寺泊町と同じ。貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳では高二二一石八斗余。天保郷帳の村高二五〇石三斗余。以降旧高旧領取調帳も同高。「白川風土記」では戸数二五。村の北方と西方の二ヵ所の溜池を用水として利用する。
吉村
よしむら
[現在地名]大野市吉
清滝川右岸に位置し、北は菖蒲池村、南東は北御門村。一七世紀中葉頃までは遍里村・縁村と称した。「へり」の名は嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に「東小山東縁西縁」「用志縁」とあり、小山庄の荘域に含まれていたと思われる。永享一二年(一四四〇)四月の春日社領越前国大野郡小山庄田数諸済等帳(天理図書館蔵)に「縁新宮地郷田数并年貢等事」として、公田八町、仏神田七反半、新宮地之堂修理田一段半が記載される。
吉村
よしむら
[現在地名]岡山市吉
日近村の西に位置する。慶長六年(一六〇一)木下家定に吉村三七〇石が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図も同高で足守藩領。正保郷帳には枝村として広柴村・上村を記す。貞享二年(一六八五)の高六〇三石余、家数八〇・人数四四三、氏神は上高田村の鼓大明神。臨済宗宝福寺(現総社市)末の岩上山慶久院(現廃寺)があるが、無住で上足守村田上寺の抱えとなっている。村内に荒神社四・若宮社・阿弥陀堂・薬師堂がある(「賀陽郡・上房郡寺社改帳」総社市史編さん室蔵)。
吉村
よしむら
[現在地名]飯山市大字吉
岳北・岳南を分つ丘陵の北麓に位置し、東は其綿村、西南は安田・山根・上新田、北は野坂田村に接する。かつて七曲という所で山崩れがあり、住民は離散したと伝える。千曲川と樽川の水災を受けやすい最低地で、村名のごとく蘆叢が多く、開発が遅れていた。
元和二年(一六一六)開発の願人佐藤市兵衛は三人の子供とともに初めて当地に鍬を下ろし、長男次郎右衛門がその後を嗣ぎ、次男権左衛門が後に北原新田を開拓した(北原共有文書)。
吉村
よしむら
[現在地名]白石町大字廿治
現白石町の南部に位置し、南は現有明町に接する。正保絵図に村名がみえる。字名の中に一本松・二本杉などがある。また有明海から内陸部に入り込んだ江湖を開拓して水田を造成したので地名に「何々谷」というのがある。平坦地に「谷」の名があるのは江湖を谷とよんだものと思われる。
鎌倉時代は稲佐城主日向氏(のち白石姓に改む)の領地。
吉村
よしむら
[現在地名]美作町吉
北山村の北東に位置し梶並川右岸沿いに倉敷村から因幡に至る道が通る。北山村から分村したが(東作誌)、その時期は未詳。正保郷帳では北山村の内とみられる。享保二年(一七一七)の「美作鬢鏡」では高一一一石余。津山藩森氏断絶後は幕府領、元禄一四年(一七〇一)甲斐甲府藩主徳川綱豊領、翌年幕府領、元文四年(一七三九)大坂定番丹羽領、宝暦一一年(一七六一)播磨三日月藩預、明和七年(一七七〇)大阪城代久世領、寛政六年(一七九四)播磨龍野藩預、天保七年(一八三六)石見浜田藩領、明治元年(一八六八)鶴田藩領(美作国郷村支配記・美作略史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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