日本大百科全書(ニッポニカ) 「戸塚彦介」の意味・わかりやすい解説
戸塚彦介
とづかひこすけ
(1813―1886)
幕末、明治期の代表的な柔術家。楊心(ようしん)流戸塚派の祖彦右衛門英澄(ひですみ)の長子に生まれ、名は英俊(ひでとし)、のち一心斎と号した。幼より英邁(えいまい)群に優れ、長じて家業の楊心流柔術の奥秘を究め、1830年(天保1)18歳のとき、沼津藩主水野出羽守(でわのかみ)忠良(ただなが)に仕え、25歳家を継ぎ、60年(万延1)将軍家茂(いえもち)に御目見(おめみえ)して、神田三崎町に移転した講武所の柔術教授方に登用されたが、わずか1年5か月で柔術廃止、その際、銀30枚、時服二着を拝受した。明治維新後、沼津ついで転封先の上総(かずさ)国菊間(きくま)(千葉県市原(いちはら)市)に従って苦労を重ね、85年(明治18)ようやく千葉県柔術師範となったが、ほどなく発病し、翌年4月、74歳で世を去った。
門弟実に三千余といい、実子の彦九郎英美をはじめ、大竹森吉、西村定中、山本欽作、警視庁武術世話係の照島太郎、好地園太郎らが有名であった。英美の率いる戸塚派は、柔術古流派中最大の実力勢力で、新興の講道館と相対立する格好(かっこう)となった。
[渡邉一郎]