楊心流(読み)ヨウシンリュウ

デジタル大辞泉 「楊心流」の意味・読み・例文・類語

ようしん‐りゅう〔ヤウシンリウ〕【×楊心流/揚心流】

柔術流派の一。江戸初期、秋山四郎兵衛の創始という。

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精選版 日本国語大辞典 「楊心流」の意味・読み・例文・類語

ようしん‐りゅうヤウシンリウ【楊心流・揚心流】

  1. 〘 名詞 〙 柔術の流派の一つ。
  2. ( 1 )江戸初期、肥前長崎の人、秋山四郎兵衛義昌が、中国医術の活殺法を学び、太宰府天神に祈願して創始したもの。その門人大江仙兵衛義時により広められた。
  3. ( 2 )江戸中期、武田氏家臣馬場美濃守頼房の後裔中村左京大夫義国(のち三浦楊心と改名)が、中村左近将監正義に甲州武田家の大陰流柔術を学んで創始したもの。楊心古流。〔武術流祖録(1843)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「楊心流」の意味・わかりやすい解説

楊心流
ようしんりゅう

近世柔術の一主流。北九州を中心に展開し、多くの分派を生じたため、その伝承も錯綜(さくそう)しているが、初祖(開祖)を秋山四郎兵衛(あきやましろべえ)、二祖(中興)を大江千兵衛(おおえせんべえ)とするもので、中国医術の胴釈法(どうしゃくほう)(活殺法)を導入して、その奥儀または上段としたのが特色である。秋山の伝記は明らかではなく、生没年も不詳、名も則重・義昌・義直など。一説には豊後(ぶんご)高田の出身、また平戸の人といい、松平安芸守(あきのかみ)の家臣などと区々である。所伝では長崎に出て小児科の医術を学び、さらに中国に渡って修業中、博転(はくてん)という者に拳法(けんぽう)3本、活殺法28種の伝授を受け、帰国後太宰府(だざいふ)天満宮に祈願して、くふうを重ね、ある大雪の朝、神前の柳樹に1本の枝折れもないのを見て感悟し、303手を創案して一流をたて楊心流と称したという。二祖の大江千兵衛は仙兵衛、専兵衛とも書き、名は義時、肥前諫早(いさはや)の人とも、毛利(もうり)家の士ともいう。長崎に出て、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の臣武管が始めたという活殺二法を学んで、秋山の伝に中段死活)・上段(当(あて))の技を付加して教授体系を整備し、胴釈の秘巻をもって印可の証とした。

 大江の名声が高まるとともに、その門に遊ぶ者も多かったが、次にあげるような俊才を輩出して、その流末はやがて全国各地に展開した。(1)大江宇兵衛義英(うへえよしひで)―千兵衛の子、その門人前田柳閑斎久俊(まえだりゅうかんさいひさとし)は江戸へ出て、野沢源太左衛門清位(のざわげんたざえもんきよつら)(秀湖(しゅうこ))を出して有名となり、松宮観山(まつみやかんざん)の息左司馬俊英(さじまとしひで)(柳条)が継承し、流末は土佐藩・高松藩に。(2)武光柳風軒信重(たけみつりゅうふうけんのぶしげ)―日向(ひゅうが)の人、江戸で活躍。(3)馬場清兵衛義治(せいべえよしはる)―流末は、会津藩に。(4)中嶋坪右衛門義利(つぼえもんよしとし)―同じく長州藩に。(5)羽野新九郎(はのしんくろう)宗命―熊本系の祖。(6)三浦(みうら)次郎兵衛永政(ながまさ)―門下に河野巣安(こうのそうあん)入道弘昌(ひろまさ)(中津藩)、田坂(たさか)十郎兵衛延正(のぶまさ)(杵築(きつき)藩)・手嶋観柳(てじまかんりゅう)実宣(さねのぶ)らがいる。観柳の門人で日出(ひじ)の人、阿部(あべ)観柳武貞(たけさだ)は大坂で道場を開き、ついで甥(おい)の江上司馬之介武経(えがみしばのすけたけつね)は江戸へ出て楊心流の名を高めた。江上の門人、戸塚彦右衛門英澄(ひでずみ)は戸塚派を開き、その子彦介英俊(ひこすけひでとし)は講武所・警視庁で活躍した。

[渡邉一郎]

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