静岡県東部の市。2005年4月旧沼津市が戸田(へだ)村を編入して成立した。人口20万2304(2010)。
沼津市の南西部を除く旧市で,静岡県東部の中心都市。1923年市制,44年片浜村など4ヵ村,55年愛鷹(あしたか)村など4ヵ村,68年原町を編入した。人口20万7558(2000)。市街地は狩野川,黄瀬川の形成した平野にあり,東は箱根山麓,北は愛鷹山,南は伊豆の山々に囲まれ,西は駿河湾に臨む。近世には,沼津は西部の原とともに東海道の宿場町として栄えたが,水野氏2万石(のちに5万石に加増)の城下町となった1777年(安永6)以降,めざましい発展を遂げた。1889年の東海道本線沼津駅の開業により,伊豆方面と結ぶ交通拠点として,また県東部の中心都市として重要性が高まった。第2次大戦中立地した海軍工厰の跡には戦後,工作機械,電機,電線などの工場が進出し,沼津の工業の中心になっている。水産業は沼津・静浦両漁港の沿岸漁業が盛んで,とくに水産加工品のアジの干物は全国生産量の44%(1996)を占める。南西部の西浦地区は県内の代表的ミカン産地の一つで,市場価値が高い。沼津駅はJR東海道本線と御殿場線の分岐点。北部の東名高速道路沼津インターチェンジは週末には伊豆・箱根方面への車でにぎわう。1893年に沼津御用邸が設けられて以来,戦前には多くの華族や資産家が別荘を建設し,海浜保養地として全国的に有名になった。千本浜公園,ビャクシン樹林(天)の大瀬崎などがある。
執筆者:塩川 亮
《吾妻鏡》承元2年(1208)閏4月2日条に〈神宮寺造営林木,伊豆国狩野山の奥より沼津の海に出す〉とあり,これが沼津の初見である。戦国期,駿河国沼津郷という記述は随所にみられる。陸上交通では黄瀬川宿,車返(くるまがえし)の里がみられ,沼津よりは発達していたようである。車返付近には今も〈造り道〉という小字があって旧官道を思わせるほか,16世紀中ごろには大岡荘上下道者商人問屋があって,ここは今川氏の被官山中源三郎が管理していた。1591年(天正19)内藤豊前守から大岡荘沼津川商人に宛て〈北上より出し候軍具狩野川を下し沼津へ向候ハハ早々海船にて駿府へ送るべき者也〉とあり,沼津が鎌倉期以来狩野川の水運と海上交通の要地であったことを推測させる。また戦国期は今川・武田・北条各氏の戦略的な拠点でもあった。1570年(元亀1)武田氏は沼津に城を築き,武田氏滅亡後は徳川氏の臣松平康親父子が在城,ついで豊臣氏の臣中村一栄,さらには徳川氏の臣大久保忠佐が城主となり,1613年(慶長18)忠佐の死とともに廃藩,城も翌年破却された。その後,徳川頼宣領,天領,徳川忠長領,韮山代官支配を経て,1777年(安永6)水野忠友により沼津藩が成立,再び沼津城が築城された。しかし,沼津はこのような領主の変遷に影響を受けながらも東海道の宿駅として成長を続けた。宿は本町,上土町,三枚橋町,城内の4区に分かれ,1688年(元禄1)の《沼津宿絵図》によれば,家数510軒(うち本陣2,脇本陣4,旅籠78,茶屋13)であった。天保年間(1830-44)の《宿村大概帳》によると,宿内人別5346人(うち男2663,女2683),家数1234軒とあり,〈農業の外旅籠屋に旅人の休泊を請,又は食物を商ふ茶店有之,其外諸商人多し〉と書かれている。諸商人の中でも五十集(いさば)商人や魚の加工業者が目だつ。明治維新により水野氏は上総菊間に移封となり,徳川家達が70万石の大名として駿府藩主となり,幕臣の一部が沼津にも移住した。沼津兵学校が設置され,西周(にしあまね)を頭取とし,沼津勤番組の子弟の教育に当たった。
執筆者:友野 博
沼津市南西部の旧村。旧田方郡所属。人口4001(2000)。伊豆半島北西部に位置し,東,南,北の三方を達磨山系に囲まれ,西は駿河湾に面する。砂嘴の御浜崎で囲まれた戸田湾の奥に戸田港があり,カツオ,マグロの遠洋漁業と沿岸の巻網漁業が盛んで,特産にタカアシガニがある。村域の大部分が山地のため,農業は傾斜地でのミカン栽培と谷底平野での米作を主とする。村の東の山地と西の海岸が富士箱根伊豆国立公園に属し,御浜崎の内海は海水浴場となっている。近年,道路が整備されたため観光客が増え,旅館,民宿など観光業を中心に第3次産業の比重が高まっている。1854年(安政1)沈没したロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号の代艦(日本最初の洋式帆船)を建造した地としても知られ,それを記念した戸田造船郷土資料博物館がある。
執筆者:萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
静岡県東部の中心都市。1889年(明治22)町制施行。1923年(大正12)楊原(やなぎはら)村と合併し市制施行。1944年(昭和19)大岡、片浜、金岡、静浦の4村を編入し、1955年(昭和30)愛鷹(あしたか)、大平、内浦、西浦の4村を編入。1968年原町、2005年(平成17)戸田村(へだむら)を編入し、現在の沼津市となる。2000年には特例市に移行している(2015年施行時特例市に名称変更)。地形は、伊豆半島の西の付け根に位置し、愛鷹山から駿河(するが)湾が奥深く入り込んだ内浦湾を取り囲み、御浜岬まで、逆「く」の字の形をなす。東に箱根山麓(さんろく)、北に愛鷹山、南は伊豆の山々に連なり、西は駿河湾で、伊豆天城(あまぎ)山に源を発する狩野川(かのがわ)が市街を二分し、黄瀬川(きせがわ)とともに平野を形成する。気候は、三方を山に囲まれて駿河湾に面するために温暖。JR東海道本線、東海道新幹線、国道1号、同バイパスが東西に通じる。東名高速道路沼津インターチェンジがあり、新東名高速道路の長泉沼津インターチェンジも近く、御殿場(ごてんば)方面へはJR御殿場線、国道246号、伊豆方面へ国道414号が通じて、交通の拠点となっている。
愛鷹山麓の休場遺跡(やすみばいせき)(国指定史跡)は先土器(旧石器)時代の集落跡で、日本の細石器文化の代表的遺跡である。縄文遺跡は愛鷹山麓に多く、弥生(やよい)時代には狩野川流域、浮島沼周辺に水稲耕作が営まれた。古代には駿河郡家と岡野牧(まき)が置かれ、中世には大岡荘(しょう)、阿野荘が存在した。沼津宿は鎌倉時代には東海道の要衝として栄え、戦国時代には駿河今川、小田原北条、甲斐(かい)武田三氏の争奪の舞台となり、武田氏により狩野川河口に三枚橋城(さんまいばしじょう)が築かれた。近世には城下町および宿場町、沼津港は伊豆と駿河湾岸町村の物資集散地として繁栄。1868年駿府(すんぷ)(静岡)藩の成立とともに城内に沼津兵学校が設立され、江原素六(えばらそろく)を中心とする旧幕臣による愛鷹山麓の開拓がなされた。東海道本線の開通、沼津御用邸の設置、丹那(たんな)トンネルの開通などで都市の発展が進んだ。現在は県東部の流通拠点都市として、沼津駅と周辺商店街の近代化への基盤整備が図られている。工業は電線、工作機械、電機工業が盛んで、東駿河湾工業整備特別地域の一部を形成。1993年には地方拠点都市地域に指定された。ミカン、茶、米、蔬菜(そさい)を中心とする都市近郊型農業を主に、沿岸部ではハマチ養殖、アジ、タイ、シマアジの放流が行われ、アジの開き、さば節加工など漁業が盛ん。アジの開き、さば節加工は全国有数の生産量を誇る。海岸線10キロメートルに延びる千本浜公園は市民の憩いの場となり、香貫(かぬき)山、三津(みと)海岸、大瀬崎、御浜岬など観光資源に富む。歴史民俗資料館のある御用邸記念公園、芹沢光治良(せりざわこうじろう)記念館、明治史料館、若山牧水記念館などがある。また、南部の戸田地区には漁港、海水浴場などがある。大瀬神社の祭典には駿河湾沿岸の漁船が大漁旗を翻して集まり、大瀬崎のビャクシン樹林は国指定天然記念物。面積186.96平方キロメートル、人口18万9386(2020)。
[川崎文昭]
『『沼津市誌』全3巻(1958~1961・沼津市)』▽『『沼津市史』全7巻(1993~2001・沼津市)』
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
※「沼津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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