百科事典マイペディア 「沼津藩」の意味・わかりやすい解説
沼津藩【ぬまづはん】
→関連項目駿河国
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駿河(するが)国(静岡県)沼津地方を領有した藩。1601年(慶長6)大久保忠佐(ただすけ)が上総茂原(かずさもばら)から、戦国末以来の三枚橋(さんまいばし)城(沼津古城)に入り2万石で立藩したが、1613年忠佐に嗣子(しし)がなく絶藩。以後この地は徳川頼宣(よりのぶ)、徳川忠長らの領地となったこともあったが、大部分は幕府の代官支配が続いた。
1777年(安永6)三河大浜1万3000石の水野忠友が、若年寄から側用人(そばようにん)に進み、7000石の加増と3000両の築城資金を与えられて沼津新城を築いて入封、再立藩した(領地高2万石)。水野氏は、徳川家康の生母伝通院(でんずういん)の生家であり、忠友の直接の祖忠清以降は代々信濃(しなの)松本藩主であったが、忠恒(ただつね)のとき城中で毛利師就(もろなり)に対し刃傷(にんじょう)に及び除封となった。家名だけは伯父忠穀(ただよし)(忠友の父)によって継承。忠友は将軍世子(せいし)竹千代(家重(いえしげ))の御伽(おとぎ)から身をおこして昇進し、側用人のまま侍従、老中に進み、田沼時代を支えた(高3万石)。養子忠成(ただあきら)(老中首座)は貨幣改鋳を行い益金60万両余を得た(高5万石)。以後、忠義、忠武、忠良(ただなが)、忠寛(ただひろ)、忠誠(ただのぶ)、忠敬(ただのり)と続き明治に至った。この間、沼津藩洋学の成果の一つ『輿地(よち)航海図』『水野家記録』『水野忠敬家記』などが残されている。1868年(慶応4)徳川宗家の駿府(すんぷ)藩創置に伴い、上総菊間(きくま)へ転封となった。
[若林淳之]
駿河国(静岡県)駿東郡沼津に藩庁を置いた譜代中藩。1601年(慶長6)大久保忠佐が三枚橋城に入って立藩(2万石)したが1613年死去し,嗣子がなかったため除封,城も翌年破却。1777年(安永6)将軍徳川家治の側用人水野忠友が駿河駿東郡1万4000石,三河大浜6000石の2万石を与えられ,沼津築城を命ぜられ,水野沼津藩が成立した。2代忠成(ただあきら)は将軍家斉の信任を得て筆頭老中に昇任し化政期の幕政を掌握,領地も加増を重ね5万石に達した。藩領は前に加え駿河全域,伊豆,越後に点在した。忠成はまた藩校矜式館(きようしよくかん)を創立した。領分支配は城付の駿河のほかは大浜(三河),白浜(伊豆)の陣屋制をとった。幕末期には海防問題の緊迫化にともない,伊豆,相模の海岸防備に出役した。8代忠敬の代の1868年(明治1)幕府が静岡藩70万石となって,徳川家達が駿河に入封したため,上総国市原郡菊間に転封,菊間藩となった。
執筆者:高橋 敏
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…忠長改易後,再び沼津,田中,小島藩による小藩支配が展開した。沼津藩は1601年大久保忠佐が2万石で入封,13年無嗣除封・廃藩ののち,1777年(安永6)水野忠友が再興した。田中藩は1601年酒井忠利が1万石で入封,以来諸家12代が交替,1730年(享保15)本多正矩が4万石で入封して定着をみた。…
…1570年(元亀1)武田氏は沼津に城を築き,武田氏滅亡後は徳川氏の臣松平康親父子が在城,ついで豊臣氏の臣中村一栄,さらには徳川氏の臣大久保忠佐が城主となり,1613年(慶長18)忠佐の死とともに廃藩,城も翌年破却された。その後,徳川頼宣領,天領,徳川忠長領,韮山代官支配を経て,1777年(安永6)水野忠友により沼津藩が成立,再び沼津城が築城された。しかし,沼津はこのような領主の変遷に影響を受けながらも東海道の宿駅として成長を続けた。…
※「沼津藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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