戸田忠至(読み)とだ ただゆき

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「戸田忠至」の解説

戸田忠至 とだ-ただゆき

1809-1883 江戸時代後期の武士,大名
文化6年8月11日生まれ。下野(しもつけ)(栃木県)宇都宮藩主戸田忠翰(ただなか)の甥(おい)。重臣間瀬氏をつぎ家老となる。藩主戸田忠恕(ただゆき)の意をうけ,県信緝(あがた-のぶつぐ)と畿内(きない)の山陵の調査と修復を実施。慶応2年下野高徳藩主戸田家初代となる。1万石。明治16年3月30日死去。75歳。通称は和三郎。

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367日誕生日大事典 「戸田忠至」の解説

戸田 忠至 (とだ ただゆき)

生年月日:1809年8月11日
江戸時代;明治時代の下野高徳藩主
1883年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の戸田忠至の言及

【宇都宮藩】より

…下野国(栃木県)河内郡宇都宮に城郭を構えた譜代中藩。中世以来続いた宇都宮氏は1590年(天正18)豊臣秀吉から本領を安堵され,太閤検地も実施されたが,97年(慶長2)国綱は突然改易となり,翌年18万石の所領は蒲生秀行に引き継がれた。1600年徳川家康の外孫奥平家昌が10万石で入封し,以後東北地方への押え,日光東照宮の入口として徳川譜代の臣が藩主となった。1619‐22年(元和5‐8)の本多正純は15万5000石を領有し,宇都宮城の拡大,城下町の改造,日光への街道の整備を行うとともに,領内の検地を実施したが,突然改易となり,復帰した奥平氏も1668年(寛文8)忠昌の死後,寵臣杉浦右衛門兵衛の殉死,藩内対立などから山形へ移されるが,このころまでが藩体制確立期であった。…

※「戸田忠至」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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