手越河原古戦場跡
てごしがわらこせんじようあと
安倍川の右岸、長田地区の平坦地一帯に比定される。上代には海が入り込んでいて手越浦と称され(駿河記)、のちに藁科川の河原となり、手越河原とよばれていた(修訂駿河国新風土記)。その後、河原を開墾して新田としていった(同書)。そのため江戸時代には手越河原は手越原村と手越村の周りをさすという認識が一般的になっていったと思われる。建武二年(一三三五)一二月五日、東下する新田義貞軍と鎌倉から西上する足利直義軍とが合戦し、川を隔てた戦いは新田軍の勝利に終わる(「太平記」「梅松論」「難太平記」など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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