押野用水
おしのようすい
雨見山(一三四七・二メートル)の麓押野から引水し、高畠山(一一四二・八メートル)の中腹を通り須川字谷地・宮原に至る農業用水。須川平は元来水の便が悪く、田地は峰須川の奥田付近を中心としたわずかな地域しか開かれていなかった。「須川記」によると、用水の起工は真田信利藩政下の寛文三年(一六六三)八月である。当初は押野堰のほかに須川字萱原(茅原)から赤谷川の水を須川平にあげる萱原堰の計画があり、須川村名主市兵衛を中心として掘進められていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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