須川村(読み)すかわむら

日本歴史地名大系 「須川村」の解説

須川村
すかわむら

[現在地名]新治村須川

三国街道布施ふせ宿を過ぎて緩い坂道を登りつめたところに広がる須川平上に位置。近世には三国街道須川宿が置かれた。天正八年(一五八〇)五月一九日の真田昌幸条書(吉川金蔵氏所蔵文書)によると、当地には須川衆とよばれる地侍がおり、一三人が真田氏にくみして倉内くらうち(現沼田市)攻めに参加している。また同一〇年三月二七日の栗林就頼宛矢野綱直書状(上杉家文書)には「少々之御人数給候ハヽ、須川ニ屋敷を立作させ申度候」とみえる。同じ頃の三月晦日の北条氏直判物写(赤見文書)は、須川衆として新保吉之助・同八右衛門・奈良左近・宝苑坊をあげる。当地は高台にあるため農業用水の確保が困難であったが、「須川記」によると寛文三年(一六六三)真田信利の支配下で着工した押野おしの用水の完成により、安定した用水の供給が可能となったという。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高五八一石余。


須川村
すがわむら

[現在地名]日原町須川

日原村の北東に位置し、津和野奥筋往還が日原村からいちノ峠を越えて当村に入り、北東の岩倉いわくら相撲すもうはらへ向かっている。集落はすんとお元郷もとごう森床溢もりとこえきさかたんにある。慶長七年(一六〇二)の検地高一二七石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高一六七石余、田二一町余・畑一一町九反余(「検地帳」同書)。明治四年(一八七一)の万手鑑は須川八ヵ村(当村と大倉谷・小倉谷・岩倉・相撲ヶ原・笹ヶ峠・滝谷・須川谷の各村)の一つにあげ、総高二〇〇石余・反別四三町五反余、家数四五(本百姓二二・下作二〇・社家一・寺一など)・人数二〇七、牛三九、八幡宮、誓覚せいかく寺、米蔵一、鉄砲二八、紙漉舟三一、酒屋一。


須川村
すがわむら

[現在地名]安塚町須川

須川・須川中部すがわちゆうぶ須川木仲すがわきなか須川原すがわはら須川上山すがわかみやまの集落がある。ひしヶ岳(一一二九・一メートル)北側山麓のすみ川・柳平やなぎだいら川・須川川流域に位置する。南は信越国境の関田せきた山脈が延び、当村から赤毛あかげの地蔵・ドンドン清水を経て須川峠越で、信濃国水内みのち西大滝にしおおたき(現長野県飯山市)に下りる道は信州街道の呼称があり、千曲ちくま川沿岸の信州側諸村との交易が古くから行われていた。地名は、酸味のある川が流れている所、鳥の巣のように数本の谷川が集まっている所に発達した当村の立地条件によると思われる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「吉田与吉郎分諸越彦七郎分須川村 下」とあり、本納一六石一斗九升一合・縄高五一石四斗四升四合、家七軒・二五人。


須川村
すがわむら

[現在地名]錦町大字須川

玖珂郡北部、宇佐郷うさごう村の西南、南流する宇佐川に沿って開けた村で、西側は石見国鹿足かのあし(現島根県)に接する。萩藩領奥山代宰判所属。

村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に「須川畑 刀禰宇佐川左馬允宰判」とみえる。「閥閲録」所収の天正一三年(一五八五)の堅田安房家文書に

<資料は省略されています>

とあり、この頃堅田氏の知行地であったことが知れる。

須川村は古くは上下二村があったという説もあるが(広瀬町誌)、「注進案」は、村内の小名一四を上組(上須川)、下組(下須川)奴田ぬた神明原しんめいばらの四組に分け、それぞれに畔頭を置いたと記す。


須川村
すがわむら

[現在地名]朝倉町須川

比良松ひらまつ村の北東に位置し、西部をかつら川が流れる。「続風土記」によれば古くは菅生と記したという。同書は当村の内として山後やまうしろ村・威徳寺いとくじ村・長安寺ちようあんじ(朝闇寺)村・来向寺らいこうじ(来迎寺)村をあげる。小早川時代の指出前之帳では須川村の田四八町一反余(分米五五四石余)・畠五九町一反余(分大豆二七七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千三三九石余、うち大豆六四九石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千三七一石余・反別一二四町六反余、家数一三五・社四、人数六二六(田圃志)


須川村
すがわむら

[現在地名]平村寿川すがわ

入谷いりたに村の北、庄川右岸の山腹に位置する。入谷村から八町余、北の大崩島おおくずしま村まで九町余(村々道程駄賃付「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)。東は山、西は庄川を見下ろす。通り名はスゴウ。数河のほか数ヶ尾・数江・次川と書かれていたのが江戸中期に須川に定まった(平村史)。寛永七年(一六三〇)の高六五石余、免五ツ三歩二厘(高・免とも幕末まで変化なし)、納所金子一一両三匁九分余・塩硝代一匁一分余(「検地見図帳並免定目録」川合家文書)


須川村
すがわむら

[現在地名]守門村須川

破間あぶるま川左岸にある。下流は赤土あかつち村、上流は松川まつかわ村、西の対岸は大倉沢おおくらさわ村・福田ふくだ新田・須原すはら村。東方破間川支流松川川左岸に向松川むかいまつかわの集落がある。慶長一四年(一六〇九)の検地帳(守門村史)によると、田畑合計一町五反余・高一三石四斗余。正保国絵図では高一四石余。天和三年郷帳では高三二石四斗余、ほかに同所新田高八石八斗余がある。同年(一六八三)の検地帳(守門村史)では、田一町八反余・畑二町二反余、名請人四人。ほかに名請人一人の同所清右衛門せいえもん新田があり、田五反余・畑四反余。寛保二年(一七四二)の幕府より被仰渡(会津藩家世実紀)によると、江戸富沢とみざわ町の新田師越後屋庄左衛門は、向松川の川原二町歩の開発を願出ている。


須川村
すがわむら

[現在地名]奈半利町 須川・ひら宇川うがわ久礼岩くれいわ

奈半利浦の東南、海岸沿いの台地上にある集落で、奈半利村の枝村とされた。台地の下にある若干の漁業集落は奈半利浦庄屋の支配。須川八王子宮にあった棟札(蠧簡集木屑)に「奈半利庄菅生山八王子社 永禄七甲子歳菊月八日 安岡新蔵人虎頼 須川善右衛門安光 菊月九日遷宮 須川総氏子 奈半利西勝院其年六十五歳書写之」とあり、この地がかつて「菅生」とよばれ、奈半なは庄に含まれていたことが知られる。


須川村
すがわむら

[現在地名]山東町須川

柏原かしわばら村の北に位置し、東部は山地で山沿いに集落があり、西は平地が開ける。遠藤菅勝の菩提寺で建久四年(一一九三)創立と伝える菅生すがお寺があり、菅生または菅勝すがかつが転じて須川となったという。享禄元年(一五二八)三月一日の柏原西方百姓連署田地売券(三宝院文書)では「柏原庄内スカワ前」の地が成菩提じよぼだい院に売却されている。「佐々木南北諸士帳」に当地居住の遠藤主膳がみえる。須川山(二三七メートル)には遠藤氏の拠った山城跡があり、南稜には石積みを残す曲輪、東稜には弓形の低土塁を有する曲輪が確認できる。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)に「菱川村」とみえ、高一八〇石余、豊臣秀吉の直轄地。


須川村
すがわむら

[現在地名]保内町須川

東は標高五〇〇メートル、南北は三〇〇メートル級の山に囲まれ、西は喜木きき川に向かって開けている。南は名取なとり峠を経て大平おおひら(現八幡浜市)、西は喜木村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「須河村 茅山有」とある。

大成郡録」に記された太閤検地の村高は三〇八石六斗四升、耕地面積の比率は田三二パーセント、畑六七パーセントであったが、寛文検地では村高は一・四倍に、耕地面積の比率は田一四パーセント、畑八六パーセントに変わり、畑の開発が著しく進んだことがわかる。「墅截」によれば、寛文(一六六一―七三)頃の村の状態は村柄「上」、田「上」、畑「中ノ下」、水掛り「中」。


須川村
すがわむら

[現在地名]小矢部市宮須みやす

横谷よこだに村の北、子撫こなで川左岸の河岸段丘上と山地に立地。須河とも記す。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数三、桜町組に属する。正保郷帳では高八六石余、田方二町八反余・畑方二町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高九三石・免六ツ、小物成は山役二四匁(三箇国高物成帳)。所属組は坂又さかまた村に同じ。


須川村
すかわむら

[現在地名]能生町須川

能生川右岸にあり、上流はくずれ村、下流は川詰かわづめ村に接する。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高六三石五斗余とある。天和三年(一六八三)の検地帳(須川区有文書)によれば、田方五町五反四畝余・畑方四町五反四畝余、田畑屋敷色高合一〇町九畝余で、屋敷持百姓一八名、うち一名は名子である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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