新治村(読み)にいはるむら

日本歴史地名大系 「新治村」の解説

新治村
にいはるむら

面積:一八二・八七平方キロ

郡の西端に位置し、東は水上みなかみ町・月夜野つきよの町、南から西は吾妻あがつま高山たかやま村・中之条なかのじよう町、北は新潟県南魚沼みなみうおぬま湯沢ゆざわ町。村域中央部を赤谷あかや川が南東流し、支流西にし川・須川すかわ川などを合せる。赤谷川・西川沿いに国道一七号(三国街道)が通る。北西の三国山脈は新潟県との県境であり、標高二〇〇〇メートル級の山が連なる。南境から西境にかけてみなみ山と総称される山地が続き、東境大峰おおみね(一二五四・八メートル)吾妻耶あづまや(一三二二・七メートル)となる。


新治村
にんばりむら

[現在地名]峰山町字新治

二箇にか村で久美浜街道から分岐した峯山町への新治道に沿い、集落はその西方山麓にある。

新治からは、弥生時代の土器片がみつかっており、古墳も集落西方の樹枝状丘陵に八基ある。また小字目谷めだにには横穴八基が発見されている。古代・中世は新治郷(和名抄)の地。

中世末の丹後国御檀家帳に

<資料は省略されています>

とみえ、志万源三郎・西宮蔵人・中島左京進・摩利寺の名が記される。慶長検地郷村帳には高六二八・二石「新治村」とでる。以降ほぼ高の変化はない。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領、翌年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領と変遷。


新治村
にいはりむら

面積:三四・一二平方キロ

郡西部に位置し、東南は土浦市、南は桜川を隔てて桜村、西に筑波町、北は筑波山系の稜線を境に八郷やさと町、北東は千代田村と接する。村の南部は桜川沿いに肥沃な水田地帯が広がり、中間は台地で平地林と畑地が多く、北部は山間地帯となり、その麓に耕地が展開する。南北にやや長い純農村で、米・野菜・果樹・花卉・養豚・養蚕・煙草など各種の農産物を産出するが、山間部では土砂の採取が行われるため、山容に変化が生じている。村の南部、台地の裾沿いには筑波鉄道が走り、並行して国道一二五号が通じる。


新治村
にいはりむら

[現在地名]千代田村新治

あまの川右岸の台地上にあり、北は野寺のでら村、東は(現石岡市)。弘安大田文に南郡として「荒張一丁一段」とある。天正末期に佐竹氏の支配下に入り、慶長七年(一六〇二)以降旗本領となる。元禄郷帳の村高は四七二石余、文政一一年(一八二八)戸数は三五・人数一九六(「三十六ケ村家数人数之覚」豊崎家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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