掛田村(読み)かけだむら

日本歴史地名大系 「掛田村」の解説

掛田村
かけだむら

[現在地名]霊山町掛田

小国おぐに川に沿い、南は下小国村、東は山戸田やまとだ村、北は山野川やまのがわ村。懸田とも記された。中村街道のほか、梁川やながわ(現梁川町)川俣かわまた(現川俣町)を結ぶ街道も通り、交通の結節点として早くから町場を形成した。掛田町とも通称され、宝暦六年日記(佐藤家文書)にその呼称がみえる。応永七年(一四〇〇)一〇月一一日の懸田宗顕一揆契状写(上遠野家古文書)に「懸田」とみえ、懸田宗顕と藤井孫四郎は一揆を結んでいる。同二〇年一二月、関東公方足利持氏は大仏だいぶつ(現福島市)に拠る伊達持宗および懸田定勝を攻撃することを白河三河七郎に督促している(同月二九日「足利持氏軍勢催促状」有造館本結城古文書写)。懸田氏は懸田城に拠った領主で、元来は大江氏と伝えられる。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に懸田とみえ、高一千三四一石余。近世初期の邑鑑によると免二ツ二分、家数八〇(役家三四、肝煎・小走四、職人・寺・山伏・座頭・脇家四二)、人数二六五、役木として桑・楮・紅花がそれぞれ少しあった。米沢藩領時代の古高一千九七八石余、幕府検地による新高一千六〇六石余で検地時の名主は与惣左衛門・庄左衛門(古高新高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報