日本歴史地名大系 「放生津城跡」の解説 放生津城跡ほうじようづじようあと 富山県:新湊市法土寺村放生津城跡[現在地名]新湊市中新湊・二の丸町放生津潟から内(うち)川が流れ出る地点の西側、放生津小学校一帯に位置した。当城付近には鎌倉中期に守護所が置かれ、同末期には北条氏一族で守護職を勤める名越氏も居住した。「太平記」巻一一によると、元弘三年(一三三三)五月守護名越時有らが出羽・越後の南朝方が京都へ攻上るのを防ぐため二塚(ふたづか)(現高岡市)に陣を構えたものの、幕府方の敗報によって動揺が起こり、放生津城内で自刃したと伝える。のちの放生津城はこの名越氏の居館を引継ぐ形で築かれたものであろう。室町期に畠山氏が守護となると、神保氏が婦負(ねい)・射水(いみず)二郡の守護代を勤め、放生津に居城を構える。神保氏の守護代としての初見は嘉吉三年(一四四三)で(同年一二月二七日「守護奉行人連署奉書案」徳大寺家文書)、遅くとも一五世紀半ばには放生津に拠点となる城郭が存在したとみられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by