日本歴史地名大系 「新湊市」の解説 新湊市しんみなとし 面積:三一・五二平方キロ県西部、庄川最下流東岸に位置。富山湾岸の奥まった低湿地を中心に市域を形成する。東は富山市、南は射水(いみず)郡下(しも)村・小杉(こすぎ)町・大島(おおしま)町が並び、西は庄川を挟み高岡市。東西一一・二五キロ、南北六・七四キロと東西に長い。中心地を国道四一五号、南部を国道八号が通り、加越能鉄道によって高岡市と結ばれている。低湿地の中央に放生津(ほうじようづ)潟(現富山新港)があった。庄川の乱流ならびに放生津潟に注ぐ鍛治(かじ)川・下条(げじよう)川は所々に微高地を形成し、海岸線には約五メートルに達する砂丘がある。庄川河口と放生津潟を結ぶ内(うち)川は古くから湊として利用された。低湿地のほとんどが水田に利用され、縦横に水路が通り、舟による交通路ともなっていた。また富山湾に面する水産業の中心でもあった。昭和四三年(一九二六)放生津潟を利用した富山新港が開港し、周辺の景観は一変し、富山県工業化の拠点となった。市域は東部のごく一部が旧婦負(ねい)郡であったほか旧射水郡に属し、市名は明治四年(一八七一)に成立した新湊町に由来する。〔原始・古代〕考古遺跡は庄川右岸と放生津潟の扇状地末端および放生津潟の砂洲上に立地する。下久々江(しもくぐえ)遺跡で縄文土器が採集されているほかは、弥生時代以降に属する。弥生時代では行政区画としては高岡市に属するが、中曾根(なかそね)遺跡や新庄川(しんしようかわ)遺跡などがある。古墳時代の遺跡は目下のところ知られていないが、奈良・平安時代以降は遺跡が増加する。古代には射水郡の北東部、放生津潟の周辺一帯を中心とした。放生津潟は「万葉集」に奈呉(なご)の海とみえ、春や夏にしばしば大伴家持らが遊覧に出向く名勝であった。「万葉集」巻一七から巻一九には、天平一八年(七四六)八月に「奈呉の海人の釣する舟は」、同一九年四月に「奈呉の海の沖つ白波」、同二〇年正月に「水門風寒く吹くらし奈呉の江に」、同年三月に「奈呉の海に船しまし貸せ」「奈呉の浦廻に寄る貝の」、天平感宝元年(七四九)五月に「奈呉の海の沖を深めて」、同年閏五月に「奈呉江の菅の」、天平勝宝二年(七五〇)三月に「奈呉の海人の潜き取るとふ真珠の」、同年五月に「奈呉の浦廻に寄する波」など「奈呉」の地名が多数みえ、国府に近かったことを裏付けている。放生津潟には南の射水丘陵辺りから神楽(かぐら)川・下条川・大坪(おおつぼ)川などが流入し、国府へ通じる水運にとって重要な位置を占めた。「延喜式」神名帳の射水郡にみえる道(みち)神社・草岡(くさおか)神社は位置が移動したことも考えねばならないが、当市域内に比定する見方が有力である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by