日本歴史地名大系 「散田村」の解説 散田村さんだむら 東京都:八王子市散田村[現在地名]八王子市散田町一―五丁目・並木町(なみきちよう)・めじろ台(めじろだい)子安(こやす)村の西方にあり、南は下椚田(しもくぬぎだ)村、北は千人(せんにん)町および吉田(よしだ)川(現南浅川)を隔てて下長房(しもながぶさ)村と接する。天正一九年(一五九一)一一月「多磨郡散田村」内の五石が「真覚寺」に与えられ、寛文五年(一六六五)にも安堵されている(御朱印帳)。田園簿に村名がみえ、田二三石余・畑三五二石余で幕府領、ほか広園(こうおん)寺領一五石。元禄郷帳では高五九六石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領三五八石余、高家長沢領二二三石余。 散田村さんでんむら 石川県:羽咋郡志雄町散田村[現在地名]志雄町散田向瀬(むこせ)川と子浦(しお)川が合流する沖積地に位置し、山岸(やまぎし)・金谷(かなや)・室野(もんの)の三垣内からなる。この地域の開発は古く、縄文晩期のフルミヤ・鍋山(なべやま)の両遺跡、六世紀後半の散田金谷古墳がある。地名は中世の散田の名残とみられるが不明。正保郷帳によると高六一二石余、田方二一町八反余・畑方一八町九反余、免四ツ六歩、新田高五九石余(免三ツ四歩二厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(山岸文書)では高七〇八石、免五ツ三歩、新田高四石、小物成は山役二四二匁・苦竹役二四匁、鳥役一六匁(出来)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報