日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤親基日記」の意味・わかりやすい解説
斎藤親基日記
さいとうちかもとにっき
室町中期の幕府奉行人(ぶぎょうにん)斎藤親基(生没年不詳)の日記。1465年(寛正6)8月より67年(応仁1)5月までの記事が残っている。親基は基恒(もとつね)(法名玄良(げんりょう)、?―1471)の子息で、初め孫四郎基雅(もとまさ)を名のり、のち親基と改めた。父基恒は幕府の右筆(ゆうひつ)方宿老で政所(まんどころ)執事代・式評定衆(しきひょうじょうしゅう)を勤め、『斎藤基恒日記』(『続々群書類従』『続史料大成』所収)を残している。親基も右筆方として御前沙汰衆(ごぜんさたしゅう)・政所寄人(よりゅうど)を勤めた。そのため日記は奉行人を中心とする人事に詳しく、幕府機構を考察するうえで基礎的史料となっている。ことに各種の行事に参会した人々の氏名が克明に記されており、奉行人の置かれた位置を知ることができる。段銭(たんせん)・洛中地口銭(らくちゅうじぐちせん)の徴収方法、代々御内書(ごないしょ)右筆次第、伊勢(いせ)氏系図、伺事(うかがいごと)番次第、政所内評定着到(ちゃくとう)などがおもな記事である。
刊本に『群書類従』『新校群書類従』『増補続史料大成』がある。
[田中博美]