日本歴史地名大系 「斗賀野村」の解説 斗賀野村とがのむら 高知県:高岡郡佐川町斗賀野村[現在地名]佐川町東組(ひがしぐみ)・中組(なかぐみ)・西組(にしぐみ)・西山組(にしやまぐみ)・川(かわ)ノ内組(うちぐみ)虚空蔵(こくぞう)山(六七四・七メートル)と蟠蛇森(ばんだがもり)(七六九・三メートル)の北麓に位置し、「土佐州郡志」に「東限戸波界、西限尾川村、南限桑田山村、北限三野之丸山川、東西五拾町余、南北一里、戸凡二百二拾有余、其土黒」とある。天正一八年(一五九〇)の度賀野庄地検帳から、中世に度賀野(とがの)庄があったことも推定されるが、立荘の時期・荘園領主など伝えるところがない。ただ同地検帳には時弘・清次・宗弘・安岡などの名田や、テウテン・島田(しまだ)・伏尾(ふしよう)に土居のあったことが記される。南北朝時代、この地の領主として度賀野氏がおり、南朝方として活躍した。暦応三年(一三四〇)正月二八日付の佐伯経貞軍忠状(西岡家文書)によると「度賀野又太郎入道」は花園宮(満良親王)の麾下で大高坂(おおだかさ)城(現高知市)攻防戦に参戦、康永元年(一三四二)九月二六日の津野(つの)新庄岡本(おかもと)城(現須崎市)の攻撃では「度賀野軍勢」が活躍している(「佐伯国貞軍忠状」蠧簡集拾遺)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by