西山村(読み)にしやまむら

日本歴史地名大系 「西山村」の解説

西山村
にしやまむら

[現在地名]池田町西山

州津しゆうづ村の北、急傾斜の山間部に位置。南の吉野川対岸は池田村、西は白地はくち村、北東は東山ひがしやま(現三好町)。西山越の道がある。正保国絵図には西山とみえ、高一〇四石余。明暦四年(一六五八)の棟付帳(川人家文書)でも高一〇四石余で家数七七・男一六〇。寛文三年(一六六三)の当村のうち洞草ほらくさ名の検地帳が川人家に残る。翌四年の郷村高辻帳では高一〇四石、すべて畑方で芝山・小はへ山の注記がある。延宝二年(一六七四)の棟付帳(川人家文書)では家数一〇二・男二九九、高一四一石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高一四〇石余。寛保二年(一七四二)の検地帳(同文書)によると田一一町九反余・高八八石余、畠八六町五反余・高二二〇石余。宝暦一一年(一七六一)の巡見村々指出(三好郡志)では高三二四石余・物成一二九石余、家数八七・人数九三五、社七・寺一、牛八一、郷鉄砲二。


西山村
にしやまむら

[現在地名]鮫川村西山

鮫川村の北端部、阿武隈高地墓地石ぼちいし(五八〇・三メートル)南麓丘陵に立地。東境を鮫川が北東流する。永和三年(一三七七)一一月二五日の結城朝治譲状(結城神社文書)に、高野たかの郡北郷のうち「ぬまのさは」とみえ、朝治に実子ができない場合は、同所をひこ夜叉に譲るとある。この「ぬまのさは」は当地の沼の沢ぬまのさわに比定される。応永六年(一三九九)に料所である沼沢村ほか二ヵ村が、足利満貞から結城満朝に預け置かれている(八月二八日「足利満貞書下状」阿保文書)


西山村
にしやまむら

[現在地名]白鳥町西山

みなと川中流域とその支流兼弘かねひろ川沿いに集落がある。村域の大部分は烏帽子えぼし山などの山林。北は白鳥村、南は讃岐山脈を隔てて阿波国板野いたの郡。白鳥村から兼弘川に沿って鵜峠うのたおを越え、阿波国宮川内みやごうち(現徳島県板野郡土成町)に出る道があり、宮川内越とよび、中世以来の重要な交通路であった。寛永国絵図には白鳥郷のうちに西山・兼松(兼弘か)がみえる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では村高二八七石余。寛政一一年(一七九九)の村入目帳(日下文書)によると三六一石余、東山・西山二村の入目のうちに白鳥宮御田御年貢・白鳥市押肴入目、西山村単独の入目に竜王祭入目諸米・白鳥宮弓所御請米・別宮べつくう寺五穀祈祷料などがあった。


西山村
にしやまむら

[現在地名]長崎市上西山町かみにしやままち下西山町しもにしやままち西山本町にしやまほんまち西山台にしやまだい一―四丁目

岩原いわはら村の西にあり、南は長崎炉粕ろかす町・北馬きたうま町と接する。北部に金比羅こんぴら山があり、その東麓を中島なかしま川支流の堂門どうもん川が流れる。はじめ大村藩領で、慶長一〇年(一六〇五)より幕府領で長崎代官支配となる。長崎の出入要路六口の一つ(長崎名勝図絵)。正保国絵図に西山村として高一〇七石余。


西山村
にしやまむら

[現在地名]芝川町西山

羽鮒はぶな大久保おおくぼ両村の北、芝川下流域に位置する。中世は富士上方ふじかみかたのうち。永仁六年(一二九八)の日興本尊分与帳(北山本門寺文書)に、「富士西山河合四郎光家者、日興第一弟子也」とあり、当地には日興信徒の河合光家が居住していた。日興没後北山きたやま本門寺(現富士宮市)の相続争いに敗れた日代が当地に移り、康永三年(一三四四)大内安清から寺地の寄進を受けて西山本門寺を建立している(同年一〇月一三日「大内安清寄進状」西山本門寺文書)。永正九年(一五一二)二月七日の義忠寄進状(同文書)に、「富士上方西山村本門寺」とみえる。


西山村
にしやまむら

[現在地名]千種町西山

千種川の右岸およびその支流西山川の流域に位置し、南はむろ村。西は美作国吉野よしの後山うしろやま(現岡山県東粟倉村)に接し、志引しびき(標高六八五メートル)を越えて物資の流通や通婚が江戸時代から昭和初期まで続いた。婆落ばばおとしとよばれる険阻な場所もあったが、中世から千草鉄を備前へ運ぶ主要道の一つで、吉備文化の流入道でもあった。現在は国道四二九号が走り、旧道の頂上近くにあった文政六年(一八二三)銘をもつ道祖の地蔵(高さ六〇センチ)は国道脇に移されている。


西山村
にしやまむら

金武かなたけの内の西山に比定される。文明一七年(一四八五)七月六日の遠田兼常下知状(明法寺榊文書)に西山とみえる。博多聖福しようふく寺領であった(天文一三年一二月一二日「聖福寺僧安下知状案」同上)。西山村は前掲下知状によれば警固けごさかき曾加部そがべ新原にいばる(現早良区)との計五ヵ村で「五ケ村同心」「五ケ村地下中」などと称された共同体を形成し、往古よりたつ山の木の伐採など独占して利用してきたという。文明一七年、この五ヵ村は他の二郷(郷名不詳)が勝手に木を伐採したとしてその差留めを訴え出、五ヵ村の主張が認められた。


西山村
にしやまむら

[現在地名]相馬市西山

宇多うだ川北岸の台地に位置し、東端部は中村城下の一部をなす。同川対岸は中野なかの村、北は中村、西の粟津あわづ村との境に愛宕あたご山がある。近世初期は中村のうちに含まれていた。明暦二年(一六五六)に中村より分村して成立したとされ、同年の高七三石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高五四石余。なお、元禄検地高は六七石余、ほかに新田二石余がある(奥相志)。城下を除く天明三年(一七八三)の家数二、嘉永元年(一八四八)の家数四(検地石高収納戸口等調)


西山村
にしやまむら

[現在地名]上野市西山

西にし村の西。北は近江の多羅尾たらお(現滋賀県信楽町)御斎おとぎ峠で結ばれ、奈良時代の東海道が東西に横切る。御斎峠の名は京都東福とうふく寺の開祖、聖一国師弁円が伊賀三田みた安国あんこく寺へ来る時、西山の長老が必ず山上で膳を供したことによると「伊水温故」は記すが、弁円の没年は弘安三年(一二八〇)、安国寺建立は貞和二年(一三四六)頃で符合しない。ただ新居にいのべ庄の仏土ぶつと寺が弁円生存中に東福寺末となっており、この話が生れたのであろう。寛元二年(一二四四)四月の某陳状案(春日神社文書)には「伊賀国杵木屋宿者御社領西山庄内也」と、奈良春日社領西山庄がみえる。当村深山ふかやまの春日神社の縁起は久安五年(一一四九)奈良より勧請と伝え、また新居庄のなかには承安二年(一一七二)すでに春日社領が成立しており(「春日社司連署起請文」春日社記録)、相互の関連がうかがえる。


西山村
にしやまむら

[現在地名]加美町西山

市原いちはら村の北に位置し、西は山。村の東を杉原すぎはら川が南流する。「にっしゃま」ともよぶ。天正一九年(一五九一)一二月二日の林与一郎売券(雲門寺文書)に村名がみえ、村内の壟地敷(小高い草生地)清水の雲門きよみずのうんもん寺へ売却している。慶長九年(一六〇四)姫路藩主池田輝政は家臣寺西忠左衛門尉に西山村二六二石余などの知行を認めている(「池田輝政知行目録」寺西家文書)


西山村
にしやまむら

近世初期の池田いけだ郡内の村名で、寛永一二年(一六三五)大垣藩主戸田氏鉄の入封後は、枝郷のような扱いであった池戸いけと村・下箇流しもがれ村・上箇流村・香六こうろく村・河合かわい村・中山なかやま村・種本たねもと村・寺本てらもと村・中郷なかごう村の九ヵ村が分立して記載されるようになった(寛文四年「大垣藩領知目録」国立史料館蔵)。その後も西山または西山筋などと通称された。大永二年(一五二二)一〇月吉日の年紀をもつ川合光明こうみよう寺蔵の鰐口陰刻銘に小島おじま庄河合とあることから、中世は当地一帯が京都青蓮しようれん院門跡領の同庄に含まれていたと考えられる。


西山村
にしやまむら

[現在地名]掛川市初馬はつま

あわヶ岳(五二七・三メートル)の南西麓、初馬川の上流域にあり、南西は初馬村。「遠淡海地志」は初馬村の項に曹洞宗観音寺の所在地を「初馬村内西山村粟岳」と記す。掛川藩の便宜上の村で、郷帳類や旧高旧領取調帳に村名はみえないが、明治七年(一八七四)の遠江国各区并村名帳に初馬村枝郷西山村とある。元亀―天正(一五七〇―九二)頃に武田氏が遠州に侵入、村々に放火したので庄屋忠左衛門の祖治兵衛は初馬村へ、他の者は地頭方じとうがた(現相良町)半済はんせい(現菊川町)南西郷みなみさいごう久保くぼなどに避難した。


西山村
にしやまむら

[現在地名]木之本町西山

大音おおと村の南、琵琶湖北東岸を南北に走る地塁山地の東麓、南流する余呉よご川流域平野に立地。北部に枝郷の田居たい村がある。西山の山頂やきたたに小山こやまに古墳の存在が知られる。慶長七年(一六〇二)の検地では田四九町二反余・高七三四石余、畑五町三反余・高五八石余、屋敷一町九反余・高二四石余(伊香郡志)。寛永石高帳によると彦根藩領(幕末に至る)。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数五九三、うち寺社方一。特産の西山糸は空海が皇室に献上、良質を京師で喧伝されたと伝える。のち江戸組という御用商人と取引、左近の名を冠し左三ッ捻を西山糸の標式とした(伊香郡志)。大音糸とともに和楽器糸としても知られる。


西山村
にしやまむら

[現在地名]平田村西山

阿武隈高地の山間部、北須きたす川の上流域に位置し、東は大柿おおがき村・北向きたむこう村、南は小平おだいら村・中倉なかぐら村、北は下蓬田しもよもぎだ村。中世城館が五ヵ所あった。寛永四年(一六二七)以降白河藩領とみられ、白河古領村郷高帳による高五五八石余。寛文二年(一六六二)頃に本多忠周(前白河藩主本多忠義の五男)の分知領となるが、天和元年(一六八一)白河藩領に復したとみられる(元禄五年「松平結城白河藩領分村高調」白河市史)。同分村高調に「小平村ノ内」として西山村の高五〇七石余とみえる。のち幕府領となったようで、寛政二年(一七九〇)常陸土浦藩領となり幕末に至る。


西山村
にしやまむら

[現在地名]輪島市西山町

東院内ひがしいんない村の南、南志見なじみ川の水源の山間部に立地。大西山おおにしやま小西山こにしやまの二垣内がある。正保郷帳に村名がみえ、高二三一石余、田方七町五反余・畑方七町九反余、新田高二六石余、田方一町六反余・畑方一反余。承応三年(一六五四)の村御印の高二三八石余、免五ツ八歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二六九石、免六ツ、小物成は山役二〇五匁・漆役八匁・蝋役三匁、鳥役一匁(出来)、鍛冶炭役五匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。近世後期の高二八九石、百姓数四八(「粟蔵組村鑑帳」粟倉文書)。宝暦一四年(一七六四)の稲植付歩数書上(大西山区有文書)によれば、早稲一千七〇〇歩・中稲一万五千八〇〇歩を植付け、麦は六千九五〇歩に植付けている(明和元年「麦畠作り書上」同文書)


西山村
にしやまむら

[現在地名]貴志川町西山

鳩羽はとば山の南麓に広がる。東はみや村、南は長山ながやま村。村の西端を貴志川の支流丸田まるた川の上流西山谷にしやまたに川が流れる。「続風土記」は「荘中にて西の端山足にあるを以て村名とす」と記す。鳩羽山頂よりやや下った斜面に古墳時代終末期築造と推定される七ッ塚ななつづか古墳群がある。これより少し南に下った字口北くちぎたの山中からは八世紀中頃と推定される納骨器が発掘されている。中世は貴志庄に属したと思われる。

慶長検地高目録によると村高五四〇石余。「続風土記」によれば家数八三、人数二三四。


西山村
にしやまむら

[現在地名]大町市大字常盤ときわ 西山

現大町市の最南端で、西に北アルプスの前山と神明原しんめいばら扇状地が迫っている。北は現清水しみず集落に接する。同扇状地から流下する川は村居の西を流れ灌漑用水となっている。

西山の名は、天正一一年(一五八三)の小笠原貞慶の宛行状(浅野文書)に、本領安堵のほか新知行として「西山之内小宮分六貫文」ほかを与えていることを初見とする。文禄年間(一五九二―九六)に成立したとみられる筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附には「四百七拾八石八斗三升九合 西山郷 此内弐石ハ松安寺領、壱石ハ大明神領」とある。


西山村
にしやまむら

[現在地名]備中町西山

現町域の北西端、標高四〇〇―五〇〇メートルの高原地帯を占める。東は西油野にしゆの村、西は備後国境、南は平川ひらかわ村。寛永備中国絵図に村名がみえ、高四九七石余で松山藩領。正保郷帳では幕府領、枝村としてふもと村・楢熊ならくま村・吉家よしや村・大曾おおぞう村・清河内せいごうち村・小谷こだに村がある。以後幕府領として幕末に至ったとみられる(「年貢書上帳」備中町役場蔵)。文政八年(一八二五)の村明細帳(赤木文書)には「当村之儀、隣村ニ勝レ極高き所ニ而、寒気強地味不宜、深山幽谷ニ飛散田畑有之、十月より翌二月末迄雪消不申、其上猪・鹿・兎・猿夥敷防方ニ難儀仕」と村の概況を記し、畑作物としては大小豆・粟・稗・蕎麦・煙草がみえる。


西山村
にしやまむら

[現在地名]菊間町西山

高縄たかなわ半島の西部、長坂ながさか川上流一帯の盆地で、周囲を標高約三〇〇メートルの長者森ちようじやがもり高萩たかはぎ山・名石めいいし山などに囲まれる。菊間郷西端の集落。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「西山村 日損所、芝山有、林有」とみえ、村高は二三四石二斗六升一合である。享保末年から元文(一七三六―四一)頃の「野間郡手鑑」には、田畑三六町三反余、新田畑三反余、家数五九軒、人数二五九人、嘉永三年(一八五〇)頃では五二軒、二六四人。


西山村
にしやまむら

[現在地名]志賀町西山

末吉すえよし村東方山中にある無家村。村名は矢駄やだ村の西の義で、同村の枝村とされる(志賀町史)。正保郷帳には西山分として高四七石余、田二反余・畑二町九反余、免二ツ六歩九厘を記すが、末吉村高と合せた八三七石余は天保郷帳では末吉村とされているので、末吉村の枝村であった可能性があり、天明(一七八一―八九)以降の堀松組巨細帳(政氏文書)には、無家村で末吉村肝煎の兼帯村とある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高五一石、免三ツ五歩とあり、小物成はない(三箇国高物成帳)


西山村
にしやまむら

[現在地名]植木町富応とみおう

田原たばる村の東にあり、金比羅こんぴら山系くろ山の南麓を占める。天文二〇年(一五五一)六月一九日の五条鑑量に打渡すことを命じた大友家奉行人連署奉書(五条家文書)に「田嶋伊勢入道跡西山六町分」があり、年未詳の五条氏所領注文(同文書)には「西山 六町」とある。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田三二町三反三畝余・畠四八町六反五畝余、分米六七六石余、名請人延数二七人で、監物・左京・主水・大炊などの中世的名乗と並んで、神主やのち小村名となる小畠・辻村などもみえる。近世は正院手永に属し、寛永郷帳では高六七六石余。


西山村
にしやまむら

[現在地名]宇目町木浦内きうらうち 西山

中岳なかだけ村・葛葉くずは村の西に位置し、中岳川支流西山川とかたむき川が地内で合流する。正保郷帳に村名がみえ、田高七石余・畑高二二石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高三三石余。寛政八年(一七九六)には小野市組に属し、村位は下、免二ツ八分(「高反別物成品々書抜帳」県立大分図書館蔵)


西山村
にしやまむら

[現在地名]大野市西山

清滝きよたき川の右岸、稲郷とうごう村の南にあり、南西は森山もりやま村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には高六九四・六〇二石とある。正保郷帳によれば田方四七六石余・畠方二一八石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)木本藩領、同一二年幕府領福井藩預地、同一四年福井藩領。貞享三年(一六八六)幕府領。宝暦一〇年(一七六〇)八月の西山村差出明細帳(「越前史料」所収)には高八〇〇・〇八八石とあり、以後この村高が廃藩まで続いた。


西山村
にしやまむら

[現在地名]武雄市武雄町武雄字下西山しもにしやま・上西山

武雄村の西。「藤山考略」に、武雄領主五代後藤清明の弟公明が西山村を与えられて分家したとある。公明は、同村と杵島きしま永尾ながお(現杵島郡山内町)との境の山中に白木寨しらきのさいを構えて館とした。正保絵図に村名がみえる。

この村の岩次いわつぎ名には山王さんのう社がある。


西山村
にしやまむら

[現在地名]鴨川市西山

天面あまつら村の西にあり、長狭ながさ郡の最南端に位置していた。南は朝夷あさい西江見にしえみ村。正保郷帳に村名がみえ、高八〇石余、うち田方四四石余・畑方三六石余、旗本上野領。上野氏の知行は寛永一〇年(一六三三)からで、慶安四年(一六五一)三河国へ領地替になる。元禄一〇年(一六九七)に旗本京極領となり(元文村高帳・天保村高帳など)房陽郡郷考では京極二氏の相給となっているが、その後は本家の京極領になり、幕末を迎える(旧高旧領取調帳)


西山村
にしやまむら

[現在地名]峰山町字西山

切畑権権きりはたごんげん山の麓に位置する。小西こにし村の枝村で峯山藩領。村域内に、がんじあん一号墳(円墳)・二号墳(前方後円墳)があり、小字稲葉いなばに比丘尼屋敷跡と伝える地がある。またその上に古墳があり須恵器が出土した。

元禄年間(一六八八―一七〇四)の御領地高辻帳に小西村のうち西山分一九九・二三石とあり、峯山明細記によれば、戸口は四一軒、一四四人(男六四人、女八〇人)


西山村
にしやまむら

[現在地名]掛川市西山

南流する原野谷はらのや川の西岸にあり、対岸は本郷ほんごう村。正保郷帳に村名がみえ、田方一五六石余・畑方四八石余、掛川藩領、ほかに正龍寺領一石余がある。元禄郷帳では高二七一石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、善福ぜんぷく(現廃寺)領・千勝ちかつ権現領。享保郷村高帳では幕府領掛川藩預地。


西山村
にしやまむら

[現在地名]糸魚川市西山

じよう山と善光寺ぜんこうじ(七九二メートル)のほぼ中間、約三八〇メートルの高地で、西へ下ればひめ川渓谷が近い。地元では「にっしゃま」と発音する。文化三年(一八〇六)の越後国頸城郡根知谷西山邑由来記によると、天正六年(一五七八)八月下旬から九月上旬まで検地が行われ、このときの名請人は五人と伝える(糸魚川市史)


西山村
にしやまむら

[現在地名]加茂市西山

黒水くろみず村で加茂川と合流する西山川最上流の山間に位置し、北東に下高柳しもたかやなぎ村、南に蝶名林ちようなばやし村・谷地やち(現南蒲原郡下田村)がある。正保二年(一六四五)の村松領郷村高辻帳(加茂市史)によると田方七町九反余・畑方三町七反余、高一二七石六斗余。宝暦九年(一七五九)の七谷組紙漉船数改帳(山崎徳左氏蔵)によれば、御用紙を負担する紙漉百姓は一四軒で、船役は一〇船。


西山村
にしやまむら

[現在地名]田辺市上芳養かみはや

芳養川流域、日向ひなた村の北に位置する。近世の芳養庄の北部の山間を二分し、東に東山ひがしやま村があり、両村の広さは荘の大半を占める。北は日高郡大川おおかわ(現南部川村)に接する。中世は芳養庄に含まれた。慶長六年(一六〇一)の浅野左衛門佐殿知行持高写(「万代記」所収)によると村高一五三石余。


西山村
にしやまむら

[現在地名]多久市南多久町長尾みなみたくまちながお 西山

おにはな山・西にし山山系の山麓部に位置する山間集落。

丹邱邑誌」に「古ヘ農家六戸ヲ建シユエ六ケ所屋布ト云処アリ。又太古ノ時モ人居レリト見エテ所謂鬼塚ト云穴居ノ跡歴然タリ」と記す。また同書の享保六年(一七二一)の「郷村書出」には花祭はなまつり村に含まれている。


西山村
にしやまむら

[現在地名]下市町大字西山

丹生にう川右岸、しろ(六一七・六メートル)周辺に位置。黒滝郷のうち。慶長郷帳では村高一九〇・五五四石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は二七八・六六三石となった。


西山村
にしやまむら

[現在地名]山東町西山

長岡ながおか村の北、小座こざ(天野川支流)西岸平地に立地。慶長高辻帳に村名がみえ高一一九石余、彦根藩領。寛永石高帳では高一九七石余、うち彦根藩領一九二石余・旗本村越領五石余(幕末に至る)


西山村
にしやまむら

[現在地名]大宇陀町大字西山

西山岳東麓、松山まつやま町西方に位置する。寛元二年(一二四四)四月の春日神社文書に「西山」の荘名を記す。慶長郷帳による村高四〇〇・三七石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領、元禄八年(一六九五)幕府領となる。元禄検地により村高は三二八・一一六石と減石。


西山村
にしやまむら

[現在地名]多気町西山

五佐奈ごさな村の南、佐奈川を挟んで両側に集落がある。佐奈川の西、標高五五メートルの丘陵頂部の西山城跡には三五×四〇メートルの方形台状地があり、西側に幅約五メートルの堀がある。天正一〇年(一五八二)の北畠氏家臣帳である伊勢国司北畠家秘録(「美杉村史」所収)に「西山城主中西図書頭」と記される。


西山村
にしやまむら

[現在地名]加古川市平荘町西山へいそうちようにしやま

さと村の北西に位置する。東部を西にし川が流れる。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によれば田方一七二石余・畑方二〇石余。天保郷帳では高二五六石余。


西山村
にしやまむら

[現在地名]彦根市宮田町みやたちよう

物生山むしやま村の南、佐和さわ山東麓に位置。寛永石高帳に村名がみえ高一一九石余、彦根藩領(幕末に至る)。元禄八年大洞弁天寄進帳によると人数二七。


西山村
にしやまむら

[現在地名]三木市口吉川町久次くちよかわちようひさつぎ

まき村の北西、美嚢みの川中流域に位置する。南東は久次村。正保郷帳に村名がみえ、田方四〇石余・畑方五斗余で、幕府領。元禄郷帳では高五一石余。延享元年(一七四四)から同三年までは大坂城代・出羽山形藩堀田氏領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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