光明寺(読み)コウミョウジ

デジタル大辞泉 「光明寺」の意味・読み・例文・類語

こうみょう‐じ〔クワウミヤウ‐〕【光明寺】

粟生あおう光明寺」の略称。
神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗の寺。山号は天照山。仁治元年(1240)北条経時佐介谷さすけがやつに創建した蓮華寺を、のち現在地に移して改称したもの。開山は良忠関東十八檀林の一。所蔵の当麻たいま曼荼羅縁起は国宝。

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精選版 日本国語大辞典 「光明寺」の意味・読み・例文・類語

こうみょう‐じクヮウミャウ‥【光明寺】

  1. [ 一 ] 神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗の大本山。山号は天照山。仁治元年(一二四〇)北条経時が佐介谷(さすけがやつ)に蓮華寺を創建。開山は良忠。宝治元年(一二四七)現在地に移して改称。徳川家康の保護をうけ、関東十八檀林の第一として栄えた。所蔵の当麻曼荼羅(たいままんだら)縁起は国宝。
  2. [ 二 ] 京都府長岡京市粟生(あお)にある西山浄土宗の総本山。山号は報国山。院号は念仏三昧院。建久九年(一一九八)に蓮生坊(熊谷直実)が創建。開山は法然(源空)。粟生光明寺

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日本歴史地名大系 「光明寺」の解説

光明寺
こうみようじ

[現在地名]長岡京市粟生 西条の内

粟生あお集落の西方丘陵に東面して建つ。石段とつま先上りの長い石道を経て御影堂・阿弥陀堂に達し、その背後の一段高い所に開山法然の廟所がある。寺域一万七千坪、建物棟数三二を数える。境内には桜・楓が多く観光の名所ともなっている。報国山と号し、西山浄土宗総本山。本尊は御影堂に法然自作の「張子の御影」といわれる法然源空像、阿弥陀堂には丈六阿弥陀如来像を安置。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔法然と蓮生〕

寺伝は、寺地を法然と因縁の深い広谷ひろだにの一角とする。「法然上人絵伝」は、承安五年(一一七五)法然は「四明の巌洞をいてゝ、西山の広谷といふところに居をしめ」、さらに東山吉水よしみず(現京都市東山区)に広谷の庵を移したという。「山州名跡志」は、多年調査の結果、貞享(一六八四―八八)の初め頃に至り、光明寺の後山、法然廟所の申の方四町ばかりの広谷とよぶ場所を発見して広谷庵室跡と推定し、これより光明寺も知るところとなったと記している。

「光明寺縁起絵巻」によれば、建久九年(一一九八)三月、出家して法然の弟子となり信心も決定するに至った蓮生(熊谷直実)が、法然の勧めによってこの地に茅屋をつくり、別に仏殿を造立して六尺有余の阿弥陀像を安置した。この像は近江堅田浮御かたたうきみ(現滋賀県大津市)の千体仏の中尊で恵心の作、蓮生が秘計をめぐらしてかねて入手していたものという。蓮生は法然を開山初祖と仰ぎ、法然は寺を念仏三昧ねんぶつざんまい寺と名付け親筆の寺額を与えた。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]伊勢市岩淵三丁目

山号は金鼓山、臨済宗東福寺派。本尊阿弥陀如来。「伊勢名勝志」「五鈴遺響」などによれば、天平一四年(七四二)聖武天皇が創建したといい、初め継橋つぎはし前山まえやまにあったが、いつの頃か吹上ふきあげに移されたという。「藤園雑纂」は「光明寺ヲ前山ニアリタリト云ヘド無証ノ空談ナリ。世木ニモトヨリアリタルナリ」と記している。

年不詳であるが、祭主某下文案(光明寺古文書)に「光明寺者本願(渡会)広光神主建立之精舎也」とある。外宮権禰宜度会氏は世木を家号とした。天福二年(一二三四)正月二〇日の度会広光処分状(光明寺文書)は、広光が長男や次男など一族にその所領などを分割譲与したことを伝える史料で、箕曲みのわ世木せぎ村に住み、多くの田畑・屋敷・従者などを有したことがわかる。建長六年(一二五四)五月一一日の外宮権禰宜度会雅継の処分状案写(光明寺古文書)には「各同可致其営、氏子方之財物者、子細于故吹上政所大夫広光神主処分文也」とあり、広光は吹上政所大夫と称されていた。嘉元三年(一三〇五)正月一六日の度会希光処分状(光明寺文書)には「先祖氏寺光明寺寺務執行」とあり、光明寺は度会氏(世木氏)の氏寺であった。

いつ頃当寺の住職になったかは不明であるが、中興開山といわれる人に禅僧恵観(月波)がいる。僧恵観披陳目安土代(光明寺古文書)に「至法常住院并田畠以下者、以去元応元年十一月十九日円然渡之」と記され、元応元年(一三一九)恵観は天台宗寺院であった法常住院およびその所領を譲り受けた。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]滝野町光明寺

標高二三〇メートルの山上にある。五峰山と号し、高野山真言宗。本尊十一面観音。法道が創建し、住僧円心が師の慈覚大師を請じたという(元和九年「大慈院縁起」光明寺文書)。当地は播磨から丹波への街道が交差する位置を占めているため、度々合戦の舞台となった。観応二年(一三五一)二月足利尊氏は書写山坂本さかもと(現姫路市)を発し、足利直義方の石塔頼房が陣を置く光明寺に向かい、尊氏は西の引尾ひきおに、高師直は東の泣尾なきおに陣を置いた。両者は勝敗を決せず、尊氏は兵庫に引き、小田おだ(現小野市)にいた畠山国光もそれに続いた(「太平記」巻二九光明寺合戦事)。観応二年正月晦日の広峯長種軍忠状写(広峯文書)にみえる滝野城は光明寺のことである。

中世の光明寺には多くの坊舎があった。大聖坊は応永二年(一三九五)四月二五日の大聖坊恵賢請文(光明寺文書、以下断りのない限り同文書)によると、先師尊恵より相伝し、文安五年(一四四八)一月二〇日、別所空蔵坊と契約し譲った(大聖坊恵賢契約状)。いずれも本坊遍照へんしよう院が管轄している。応永一七年一二月一三日の沙弥心得坊屋敷等譲状によれば、心得は宝泉坊・同屋敷・竹林等を弟子の大河内幸市丸に譲った。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]鎌倉市材木座六丁目

逗子ずし市境、材木座ざいもくざ海岸近くにある。天照山蓮華院光明寺と号し、もと関東総本山と称した浄土宗の大本山。同宗の学問所である十八檀林の第一に位した良忠門下六派の総本山でもあった。開基は北条経時、開山は然阿良忠(記主禅師)。草創年時は未詳。「光明寺志」「照山記要」にいう寺伝は、執権北条経時が仁治元年(一二四〇)佐介さすけやつに一寺を建立して蓮華れんげ寺と名付け、寛元元年(一二四三)いまの地に移して堂宇を修復し光明寺と改めたという。持阿良心の「授手印決答巻上受決鈔」によると、良忠に帰依した大仏朝直が佐介ヶ谷悟真ごしん寺を建てて師を迎え、これが光明寺の前身になったとする。光明寺住持二代寂恵良暁の正中二年(一三二五)三月一五日の述聞副文(県史二)では、佐介ヶ谷の蓮華寺はもとの悟真寺であるとする。これらによれば、まず悟真寺という名で佐介ヶ谷に創建され、次いで蓮華寺から光明寺と改称されたことになる。当初の建立場所は、古来の伝承どおり佐介の蓮華寺跡(光明寺畠)かもしれない。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]綾部市睦寄町 有安

君尾きみのお山の中腹にあり、山号君尾山、真言宗醍醐派、本尊千手観音。

寺伝によれば、聖徳太子の開創といい、延喜年中(九〇一―九二三)理源大師によって真言道場として再興されたという(君尾山略記)。盛時には伽藍諸宇七二坊を擁したというが、数次の兵乱で堂塔を焼き衰微の一途をたどった。

近年仁王門改修の際、棟札から次の墨書が発見された。

<資料は省略されています>

比叡山の住僧が堂塔の建立にあたっているから、鎌倉時代には山門の支配下にあったかと思われる。「建内記」文安元年(一四四四)四月一七日条には次の記事がある。

<資料は省略されています>

また嘉吉元年(一四四一)および文明一〇年(一四七八)の禁札が残るが、嘉吉元年のものは次のとおりである。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]津久井町青山

臨済宗建長寺派、山号は金徳山。本尊は延命地蔵。開山は夢窓疎石と伝える。大永四年(一五二四)一二月九日の内藤大和入道寄進状(県史三)に「青山之村内桜野光明寺」とみえ、六六四文の菜園の地を諸公事とともに寄進されている。以後、天文五年(一五三六)八月五日・天正七年(一五七九)一二月二三日・同八年閏三月二八日・同一四年正月二六日に、いずれも津久井城主内藤一族より安堵を受けており(「康行証文」「法讃証文」「内藤綱秀書出」「左近将監直行安堵状」同書)、天正一六年一二月晦日には、直行より六〇〇文の土地を寄進されている(「直行寄進状」同書)。天正五年六月一〇日、建長寺開山蘭渓道隆の三百回忌法会に招かれている(「建長寺役者連署書状」同書)

寛永一〇年(一六三三)六月一二日の相州鎌倉建長寺末寺帳(内閣文庫蔵)に「相州津久井庄桜野 光明寺」とみえる。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]天竜市山東

山東やまひがしの西端部の丘陵上にある曹洞宗寺院。南側に光明山こうみようさん古墳がある。明鏡山と号し、本尊三満虚空蔵。もと光明山(五三九・七メートル、鏡山とも)の山頂付近にあり、行基が開創と伝える真言宗寺院であったという。戦国時代に当寺を移し、跡地は光明城とされた。慶長年中(一五九六―一六一五)もとの地に再建されたが(坪井家文書)、昭和六年(一九三一)火災で焼失し、現在地に移建された。

長禄二年(一四五八)一一月六日の鐘銘写(遠江国風土記伝)に「豊田郡二俣郷明鏡山光明寺」とみえ、大旦那柴田元貞・勧進僧真清によって鐘が奉納されている。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]防府市大字真尾

佐波さば川の左岸、松尾まつのお(二四一・八メートル)の西南麓にある。浄土真宗本願寺派で、松尾山天皇院と号し、本尊阿弥陀如来。

寺伝によると桓武天皇の頃、狩人が松尾山に登り一夜を過ごすと、空中より当地は仏法興隆の道場であるから、早く伽藍を建立せよとの声があり、国司に奏したところ、延暦三年(七八四)に至り寺院を創建、勅願所となった。大同元年(八〇六)僧最澄によって塔頭一二院が整備され、本尊も斑鳩法隆いかるがほうりゆう(現奈良県生駒郡斑鳩町)より十一面観音を移し、八宗兼学の寺となって繁栄した。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]守口市大枝北町

浄土真宗本願寺派、山号高岳山、本尊阿弥陀如来。聖武天皇の勅願、行基創建の高瀬たかせ橋院(行基年譜)の法灯を継ぐと伝える。宝暦一二年(一七六二)当山宗海の記した光明寺縁起(寺蔵)によれば、正慶二年(一三三三)本願寺覚如の長男存覚が諸国を巡回した際、小高瀬こだかせの高瀬寺(高瀬橋院)に参詣。その節、郷士高岡平左衛門が存覚に帰依、妙光の法名を授けられ、廃寺化していた高瀬寺の塔頭光明寺を修復、教化の本拠に提供した。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]山形市七日町五丁目

江戸時代城下町であった七日なぬか町の寺町にある。遍照山と号し、時宗。本尊阿弥陀三尊。時宗に傾倒して其阿と号した最上兼頼が、永和元年(一三七五)六〇歳で山形城内に一寺を建立して隠棲したのに始まる。現在鉄砲てつぽう光禅こうぜん寺にある板碑は旧二の丸の東北隅で発見されたもので、永和二年の銘があることから、この付近が光明寺の最初の場所と考えられている。兼頼は没後当寺に葬られた(寛政重修諸家譜)。最上義光分限帳(色川文書)では寺社の筆頭に当寺が載り、寺領は一千七六〇石。最上氏時代城下絵図では二の丸堀のすぐそばに光明寺が記され、二の丸東大手門の出入口近くに境内地がある。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]延岡市古城町

大瀬おおせ川南岸の低丘陵上に位置する。万寿山と号し、真言宗醍醐派。本尊は阿弥陀如来。養和元年(一一八一)井上いのうえ城主の土持相模守が城の鬼門(北東)にあたる当地に建立、豊前国宇佐郡から智賢を招いて開山とした。その後、土持氏が居城を大瀬川北岸の野田のた(西階城か)に移した際に寺も野田に移転したが、土持氏滅亡後に旧地(現在地)に移転し、わずかに寺基を守ったという。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]尾道市東土堂町

千光寺せんこうじ山南麓、宝土ほうど寺の西にあり、清浄山宝幢院と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊阿弥陀如来。旧版「広島県史」にもと天台宗で承和年間の末、円仁の草創とあり、建武三年(一三三六)紀州雑賀さいが庄内和田わだ(現和歌山市)海龍かいりゆう寺住僧弘阿が法然自賛の影像を寄付、延元元年(一三三六)西山派の僧道宗が足利尊氏西行のとき尾道浦まで随行し、当寺に住し、浄土宗西山派に改宗したという。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]平塚市南金目

南金目みなみかなめのほぼ中央、金目川北岸にあり、北を県道秦野―平塚線が通る。金目山と号し天台宗。本尊は聖観音。坂東三十三観音七番札所で金目かなめ観音堂と通称される。宝永七年(一七一〇)成立の縁起(県史八)によれば大宝二年(七〇二)小磯こいその浜(現中郡大磯町)で観音の小像が拾いあげられ、僧道儀が堂を建立して祀ったことにはじまるという。

治承七年(一一八三)五月三日の源頼朝補任下文(県史一)によれば「金目観音堂別当職」に大法師源信が補任されている。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]川尻町 久俊

川尻かわじりの中央、字久俊くどしにあり、清香山と号し浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。

「芸藩通志」は、もと禅宗で西光さいこう寺といい、上蒲刈かみかまがり(現安芸郡蒲刈町)にあったが、明応五年(一四九六)僧正光のとき宗旨・寺号を改め、天正年中(一五七三―九二)にこの地に移ったと記すが、寺蔵の縁起によれば右の西光寺は最初伊予国なか(現愛媛県温泉郡中島町)にあり、のち上蒲刈島むかい(現蒲刈町)に移り、天正元年川尻に移ったとする。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]仙台市青葉町

北田きたた町の北にあり、臨済宗東福寺派。松蔭山と号し、本尊は千手観音。弘安六年(一二八三)伊達氏四代政依が現福島県伊達だて郡に伊達氏祖朝宗の夫人光明寺殿の墓地として建てたものである。東昌とうしよう寺・満勝まんしよう寺・観音寺・興福こうふく寺と併せて伊達五山と称される。光明寺殿の位牌を安置する。天正一六年(一五八八)一月二五日には藩祖政宗が当寺に年始参りにきている(伊達天正日記)。慶長九年(一六〇四)現在地に移るが、寛永元年(一六二四)火災で焼失、のち政宗が再建。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]太宰府市宰府二丁目

太宰府天満宮の南に位置する。神護山と号し、臨済宗東福寺派。本尊は釈迦如来。鉄牛円心を開山とする。「菅神入宋授衣記」には渡唐天神説話を記した後、文永八年(一二七一)一〇月天神が博多承天じようてん寺住持鉄牛円心のもとに現れて径山の伝衣を安置したいと願い、鉄牛は大宰府霊岩の左辺に一寺を建立し伝衣を安置したという説話が語られ、この寺が霊岩神護山光明蔵寺だとしている。延文四年(一三五九)、執当法眼信政の坊人である部男が生木を伐採しようとして、それを制止しようとした大鳥居氏の坊人により殺害されたが(康安二年三月二二日「小鳥居信祐等連署契約状案」太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)四)、その時に入った山が「光明院之山」とあり、これは光明寺のことであろう。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]江刺市南町

人首ひとかべ川左岸、近世の岩谷堂いわやどう町の東端に位置。大蔵山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば、応永(一三九四―一四二八)初年徹叟弘通が田谷たや村の池向いけむかいに創建。黒石くろいし(現水沢市)正法しようぼう寺二代月泉良印を開山に招いた。以来同寺から鑑寺職の僧が派遣された。当時の大檀那は江刺氏であったが、天正年間(一五七三―九二)江刺氏が没落し当寺も荒廃した。享保元年(一七一六)岩谷堂城主岩城家の保護を得て現在地に移転・復興し、仙台の松音しようおん寺三世皇山崇詮を中興開山に招いた。以降岩城家の菩提寺として明治維新に至った。

創建当時の本尊とされる地蔵菩薩坐像の胎内銘に「応永九年壬午十月日中興之 平満家 仏師立増 坐蓮花作之」「永禄二年乙未六月一日再興 大檀那平重恒 住持禅□ 仏師寿清 願主及河尾張守」とあり、江刺満家が応永九年に造顕、同重恒が永禄二年(一五五九)に修理したことが知られる。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]飯田市久米字藪起

久米地区の西北に位置し、二ッ山ふたつやま山塊の東南麓にある。前面は光明寺ほらとよばれる峡間が東に向かって展開し、古代の東山道は谷の中ほどを南北に通じていたと推測される。寺地は峡間奥地の急斜面を三段にすき、平らにして堂宇を建てている。

真言宗、山号は円行山、本尊は十一面観音。薬師堂本尊の薬師如来の像内に「奉造立 保延六年三月三日」の墨書銘があり、更に像内背面の墨書に「僧勝覚」がみえる。勝覚は醍醐寺座主であり、のち東寺の長者となった高僧である。また飛滝ひろう神社(現和歌山県東牟婁郡那智町)境外出土銅製経筒銘(胴部陰刻銘)に、

<資料は省略されています>

とあり、保元元年(一一五六)九月八日、伊賀良庄光明寺の僧願西が如法経八部を書写したとみえる。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]那珂湊市泉町

市街中央部にある。経田山等覚院と号し、時宗。本尊は阿弥陀如来。中寺なかでらと俗称。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)には「当山開山者仁皇百代延文元丙申年遊行九代上人常州修行之砌部田野郷ニ一宇開基仕上人之直弟子三察其阿能化二代住持迄移置候其後応永三丙子年湊村ニ宗門之檀那当寺従部田野郷移湊村ニ立置候」とあり、脇坊三ヵ寺、百姓旦那一三〇人であった。延文元年(一三五六)白木が部田野へたの下宿しもじゆくに創建、江戸但馬守より回向料永三五貫文を付置かれ、応永三年(一三九六)みなとやまうえに移り、元和年中(一六一五―二四)朱印四・四七石を交付され、明暦三年(一六五七)現在地へ移った(水門志)


光明寺
こうみようじ

[現在地名]秩父市山田

横瀬よこぜ川沿いの緩やかな斜面に位置する。本堂は南面して武甲ぶこう山と相対しているため向嶽山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝によると、高望王の弟恒望王冥福のために祈願所として建てられた光明庵が前身で、開創当時は真言宗であったと伝える。文保二年(一三一八)当寺開基である丹党の関口丹後守が鎌倉建長寺より物外を迎えて堂宇を整備し、光明寺と改称して臨済禅寺にしたといい、開山は物外とされる。ただし物外が実際に開山となったのであれば、寺基確立の時期はやや後のことになろう。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]総領町亀谷 五郎丸

亀谷かめだにの北部、田総たぶさ川北岸にあり、曹洞宗。金峰山と号し本尊釈迦如来。寺伝によれば田総庄の地頭で田総城主永井重継の創立、開山は夢窓国師という。もと臨済宗で天龍寺末であったが、福山城主水野勝成が、自分で福山城下寺町に開基した曹洞宗賢忠けんちゆう寺の末寺とした。「水野記」は「田総元吉之代拾二石五斗壱升之地於亀谷・領家両村之、天正十九年之比、内藤河内没収之」と記す。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]菊川町大字貴飯 藤内畑

貴飯きば川の上流に位置し、長谷はせ山の麓にあり、浄土真宗本願寺派。長谷山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、開基の空正は上杉弾正大弼顕定の子で、一五歳の時、仏門を志し、長禄元年(一四五七)京都むらさきの野の大徳だいとく(現京都市北区)で剃髪し、のちに真宗に帰依、本願寺八世蓮如から法名蓮乗坊空正を授かり、明応五年(一四九六)に西下し、貴飯きばに来て大藤浴おおふじえきの上に一宇を建立。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]留萌市宮園町

宮園みやぞの町三丁目にある。留萌山と号する。真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。初め増毛ましけ(現増毛町)の真宗大谷派潤澄じゆんちよう寺の説教所として開設。それ以前潤澄寺は留萌に説教所を開設していたが、それが本願寺派に転じ永福えいふく寺となったため、再度説教所を開設した。上野鴻順が明治二五年(一八九二)に寺創立を出願。同二六年光明寺の寺号公称、留萌村に境内地五三四坪に間口七間・奥行五間三尺に堂宇を建立。同三二年庫裏建築を出願、同三三年に落成。同四一年本堂の増築を出願、同四三年落成。北陸地方出身者は留萌の永福寺・光明寺を「わらじ脱ぎの寺」と称して、ここに留萌での第一歩を記し、奥地の開拓地へと踏分けていった。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]下関市細江町一丁目

日和ひより山の南麓にある。浄土真宗本願寺派で玉家山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、開基は常陸国の正善で、延徳年中(一四八九―九二)本願寺八世の蓮如に帰依し、のち長門に下って大永年中(一五二一―二八)現豊浦郡豊田とよた町内に一宇を建立。その後内日うつい、さらに幡生はたぶに移転し、享保一七年(一七三二)現在地に移った。

「諸勤録」の「大年寄の年中行事」には

<資料は省略されています>

とあり、当寺で宗門改が行われていたことを示している。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]赤穂市東有年

黒沢くろさわ(三三四・八メートル)の南西麓にある。高野山真言宗、黒沢山と号し、本尊は千手観音。空海が大同元年(八〇六)唐より帰朝の途次遊歴し、行基の遺弟から鉄鉢を献ぜられたのを縁に黒沢山を密教の場と定め、山中に千手観音と脇侍の不動・毘沙門像を彫刻し伽藍を建立したのが起源という。「峯相記」に「黒沢山千手弘法大師建立」とある。永禄年間(一五五八―七〇)尼子晴久の兵乱により焼失して衰退したという。宝永三年(一七〇六)の指出帳によると竜性(竜生)坊だけが山上に残る。竜生坊は宝暦七年(一七五七)播州赤穂郡志(智恵袋)に「山内ニ一ノ沢アリ、黒色ノ霊水満テ湛タリ、其水口ヨリ一ノ龍蛇生ジテ末代護法ノ誓約力ヲ出ス、依之黒沢山龍生院ト号、亦紫ノ光霊水ヲアラハス、故ニ光明山ト称ス」と記される。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]常滑市大野町

大野おおの町の東南にある。小林山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。最初天台宗に属し、在原業平一三世孫荒尾公平の子仏性が浄土宗に帰依して改宗したと伝える。

もとは西之口にしのくち村の枝郷小林こばやしにあったが、延徳元年(一四八九)現在地に移転。仏性より一五代の浄念は水野藤四郎の娘と結婚し、藤四郎の父水野下野守より田地一〇町を、また浄念と姻戚関係にあたる佐治上野介より田地一〇町余の寄付を受けたという。天正二年(一五七四)の長島一向一揆に参戦するなど軍事的にも強力であったが、その後織田有楽斎が寺領一〇町を取上げ、秀吉は寺領をことごとく没収した。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]福山市旭町

三吉みよしから旧城下町に入る道路の最西端に位置する。城下の寺町が用水の小溝を境に三吉村の西側に位置し、当寺の立地は三吉分に属したが、支配は福山城下三二ヵ寺のうちであった。浄土真宗本願寺派、海雲山と号し、本尊阿弥陀如来。

もと津之下つのしたにあり、福山城開城の節当地に移された。開基は円教と伝えるが、「福山志料」は伝えとして次のように述べる。寛正年中(一四六〇―六六)大門だいもん城主藤間光重は笠岡かさおか(跡地は現岡山県笠岡市)城主陶山国時の夜討にあって討死したが、その嫡子光明は山口隼人と室野十郎左衛門を供にして逃げ、出家して二人の家臣に自分の名を分け、山口は明正、室野は光円とした。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]日野町黒坂

黒坂くろさか市街の南東、東流する日野川左岸にあり、如意輪山と号し、曹洞宗。本尊の地蔵菩薩は三尺一寸の立像で、春日作と伝え、鎌倉―室町期の作という。古来大法要以外開扉されない秘仏とされる。伯州黒坂開元記(山上家文書)には火防愛宕地蔵とある。永禄年中(一五五八―七〇)天台寺院として日野郡石見いわみ(現日南町)に創建、のち現在地の日野川寄りに移転したが、たびたび水害にあって再度移転。その地が関一政居城鏡山かがみやま城の築城域となり、現在地に移されたという(前掲開元記)


光明寺
こうみようじ

[現在地名]八日市市下羽田町

下羽田しもはねだ町の北東隅にある。天照山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。「浄土宗寺院由緒書」によれば、天照山摂取せつしゆ院といい、京都知恩寺(現知恩院)末。起立は文治四年(一一八八)で開山は善阿宗阿、入覚法皇御願所という。寺伝では元亨年中(一三二一―二四)知恩寺八世善阿が当地に草堂を造ったのに始まるという。また聖徳太子の開基という伝承があり、もとの寺地は栗太くりた郡にあったともいう(蒲生郡志)


光明寺
こうみようじ

[現在地名]鳥取市寺町

慶安けいあん寺の北東にある。正眼山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。近世には鳥取城下てら町にあり、北西が鍛冶かじ町の通りに面していた。境内は五四〇坪(明治四年「因州分寺院籍」県立博物館蔵)。慶長五年(一六〇〇)に単信が開基となって創建された(「鳥取市寺院縁起集」同館蔵)。「鳥府志」によれば当寺は昔湯所ゆところ村の外れにあり、寺内に八幡の宮があった。当初は八幡宮の神宮寺であったが、いつの頃からか浄土宗寺院となったもので、本尊の阿弥陀如来はもと八幡宮の神体であったというと、慶安寺の住職康誉の話を基にその伝来を記している。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]南部川村晩稲

晩稲おしねのほぼ中央、ゆるやかな丘陵にある。松寿院月向山と号し、西山浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、開基年代はつまびらかでないが古くは真言宗で、現在地北東方の月向げつこう峠にあったといい、現在もその跡が残るという。寛文六年(一六六六)の南部組・南部川組寺々書上ケ控(日高郡誌)によれば、同年より七八年前見諦という僧が住し、それ以降はすじ(現南部川村)超世ちようせい寺末であった。「続風土記」は「本堂五間四間半、僧坊・地蔵堂」と記し、地蔵堂はもと月光峠(月向峠)にあったが安永年中(一七七二―八一)に当寺境内に移したと記す。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]秋田市旭北寺町

旭北寺きよくほくてら町の北端。浄土宗、二七日山釈迦堂矍曇院光明寺と号し、本尊は阿弥陀如来。

元禄五年(一六九二)写の秋田六郡寺院調書(県立秋田図書館蔵)によれば、開基は最明寺北条時頼。佐竹氏移封以前は土崎湊つちざきみなとにあり、秋田氏を外護の檀那としたのであろう。中本山。「梅津政景日記」慶長一七年(一六一二)八月二五日条に「西光寺・玄徳寺出入ニ付、秋田より誓願寺・東福寺・光明寺より書状、使僧壱人有」とある。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]大瀬戸町瀬戸西浜郷

西浜にしはまの西部にある。東林山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寛永一四年(一六三七)の創建と伝える。長く雪浦の真光ゆきのうらのしんこう寺の檀那であったが、参詣に不便であるため、また諸国廻船が通航する湊でもあるとして当寺が建立されたという(大村郷村記)。同一六年の建立ともいう。初代泰元・二世瑞円・三世宗円と次第するが、宗円が初代ともいう。万治三年(一六六〇)一人扶持を受け、延宝三年(一六七五)京都西本願寺から光明寺の寺号が許された。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]大田区鵜の木一丁目

大金山と号し、別称宝幢ほうとう院。本尊は阿弥陀三尊。浄土宗。寺伝では天平年間(七二九―七四九)に行基が開創、弘仁年間(八一〇―八二四)に空海が再興して関東高野山宝幢院と称したという。こののち真言寺院から西山義を中心とした念仏道場として再興され、さらに浄土宗鎮西派の寺院と変遷をたどった。「蓮門精舎旧詞」では開山を善恵証空とする。史料上では鎌倉時代の終りに活躍した行観覚融の関与が認められる。行観は武蔵国の生れで「鵜木行観」と系図にその名が記されている(法水分流記)。なお「浄土伝灯総系譜」は開山証空、二世観智、三世行観という世代を伝えている。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]芦屋町西浜町

西浜にしはま町の中央部、旧市場いちば町にある浄土宗寺院。悟真山と号し、本尊は阿弥陀如来。嘉禎元年(一二三五)に聖光房弁長の弟子良忠が黒山くろやま(現岡垣町)矢矧やはぎ川の東に開基したが、しばらくして荒廃し、大永元年(一五二一)重誉により芦屋に再興されたという(「続風土記附録」「地理全誌」など)


光明寺
こうみようじ

[現在地名]氏家町氏家

旧氏家宿内五行ごぎよう川右岸にある。麗水山普門院と号し、真言宗智山派。寺伝によれば創建は応永三四年(一四二七)といい、古くは勝山かつやま城東麓の美女木びじよぎにあり、芳賀氏の菩提寺で、寛永一三年(一六三六)宥光法印により中興され、現在地に再建されたという。宇都宮氏始祖と伝える藤原宗円が、奥州の安倍頼時征討のとき勝山台で調伏を祈祷し、含満不動を安置したとも伝える。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]北条町土下

土下はした集落の北西部にある。遍照山と号し、曹洞宗で、本尊は釈迦如来。寛正元年(一四六〇)定光じようこう(現倉吉市)三世俊鷹道青が光明蔵という庵を開いたことに始まるといい、寛文一〇年(一六七〇)桂堂香林が中興開山となったと伝える。久米札第二九番札所。文化九年(一八一二)火災に遭ったが、同一五年に再建され今日に至っている(光明寺文書)


光明寺
こうみようじ

[現在地名]上京区鶴山町

雲祥山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。「坊目誌」は天文五年(一五三六)僧性誉の開基と伝え、「雍州府志」は蓮生という。旧地は不詳だが、天正年中(一五七三―九二)現在地に移転したという(蓮門精舎旧詞)。「浄家寺鑑」によれば、鎌倉時代の武将宇都宮弥三郎頼綱が承元二年(一二〇八)勝尾かつお(現大阪府箕面市)に法然を訪ね、出家して実信坊蓮生と名乗った。仁治二年(一二四一)西山の草庵で念仏三昧中、虚空に阿弥陀如来が影向したので、袈裟を放って抱止めた。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]一宮市光明寺 天王裏

県道小牧こまき北方きたがた江南こうなん線に南からの県道一宮―川島かわしま線が交差する北にある。遍照山と号し、天台宗。本尊薬師如来。「塵袋」に「尾州葉栗郡ニ光明寺ト云フ寺アリ。ハグリノ尼寺ト名ヅク。是ヲバ飛鳥浄御原御宇丁丑小乙中葉栗臣人麿始テ建立スト見エタリ」とあり、葉栗尼寺とも称し、天武天皇六年頃の建立とする。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]岡崎市矢作町 加護畑

東海道矢作橋西口の街道南側にある。時宗。鏡立山帝守院と号し、本尊阿弥陀如来。「三河堤」や寺伝によると、大同年代(八〇六―八一〇)光居智達開基の天台寺院の勅願所であったが、その後無住となり大治二年(一一二七)に再興されて光明寺と改めた。建久二年(一一九一)源頼朝により堂宇再建、供田を得たという。弘安二年(一二七九)五世清観により時宗に転じた。天授五年(一三七九)足利義満から供田を得た。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]干潟町鏑木

鏑木山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。延応元年(一二三九)鏑木胤定が良忠を開山として創建したとされる(香取郡誌)。宝治年間(一二四七―四九)には浄土宗の三祖良忠が同寺に立寄り「梵字」を建てたと伝える(浄土伝灯総系譜)。寺域内には文永期(一二六四―七五)や永和四年(一三七八)銘の常総系板碑がある。初め胤定院と号したという。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]亀田郡大野町本町

大野川左岸にある曹洞宗寺院。慧日山と号し、本尊釈迦如来。明和四年(一七六七)の建立(検考録)。開基について「渡島国地誌提要」は箱館高龍こうりゆう寺七世智道とし、「寺院沿革誌」は同寺三世唱道とする。当初光明庵と称された(検考録)。天保一三年(一八四二)三世抉宗のとき再建したという。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]筑後市津島

叡興山と号し、真言宗大覚寺派。本尊千手観音。寺伝によれば本尊は聖武天皇の願により行基がつくったと伝える。また安元年中(一一七五―七七)平重盛が建立し、貞和年中(一三四五―五〇)に足利尊氏が再建したという。慶長(一五九六―一六一五)頃までは六坊が残っていたが、田中吉政が柳川築城時の材料に用いたため廃絶し、延宝年中(一六七三―八一)久留米城下祇園ぎおん寺などにより再興された。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]守口市八雲北町二丁目

淀川堤防近くにあり、南に八雲やくも神社がある。真言宗御室派、山号正法山、院号歓喜院、本尊十一面観音。寺伝では、大同元年(八〇六)空海の開創といい、大坂夏の陣で諸堂宇は焼失、江戸時代初期に再興したという。八幡宮寺ともよばれるが、これは明治五年(一八七二)八雲神社として合祀される以前の八番はちばん村の八幡社の神宮寺であったためである。「河内鑑名所記」には本尊の十一面観音は行基の作で、「八幡・牛頭天皇・天神ノ宮有」とみえる。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]甚目寺町中萱津 道場

横笛山と号し、時宗。本尊は阿弥陀立像。弘安五年(一二八二)一遍の弟子他阿真教の創建という。「梅花無尽蔵」の「尾陽萱津の道場」、「三国伝記」の「尾張国萱津道場之衆徒洛陽七条辺に用の事ありて上洛す」などはみな当寺のこと。寺内の天満天神は飛梅の天神と言伝えられる。もとは春日井郡飯田いいだ(現名古屋市)にあったが、正和二年(一三一三)当地に移された。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]高取町大字下土佐小字ビワノキ

高取たかとり川西岸にあり、雲堂山遍照へんしよう院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来(平安後期)、脇士は観音・勢至菩薩。天平宝字四年(七六〇)子島こじま(現高取町)報恩大徳の創建と伝え、慶長年間(一五九六―一六一五)に再興された。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]大淀町大字下淵小字堂ノ辻

竜王山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝では往古は天台寺院であったという。蓮如の吉野巡教中、当寺の住僧性暁が帰依し、明応年間(一四九二―一五〇一)真宗に改宗したと伝える。蓮如の歌日記に「山々のさかしき道をすぎゆけば川にぞつれてかへる下淵」の歌がある。永正九年(一五一二)一月二八日に本願寺実如より下付された方便法身尊像の裏書に「勝林房門徒小山下和州吉野郡官上符下淵惣道場物也」とあり、下市願行がんぎよう(現奈良県下市町)の手次に属していたことがわかる。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]勝田市堀口

向坪むかいつぼの台地頭にある。真言宗智山派で竜虎山密蔵院と号する。本尊は大日如来。水戸領社寺一覧(元禄期以降、天保期以前の作)に「光明寺」とあり、寛文期(一六六一―七三)の寺院整理で破却となった高徳こうとく寺を引継いだとみられる(勝田市史)。「筑波根於呂志」によると天保期(一八三〇―四四)の寺院整理で「年来無住村方願之上畳寺」となったが、昭和四八年(一九七三)に建立された境内の沿革碑文には「元治元年十一月国難ノタメ堂宇烏有ニ帰ス後明治十二年仮堂ヲ造立現在ニ至ル」とある。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]下妻市下妻

栗山くりやまにある。真宗大谷派、西木山高月院と号し、本尊は阿弥陀如来。承久二年(一二二〇)明空の開基と伝える。明空とは三浦荒次郎義忠の法名で、和田合戦の落人として奥州へ逃れる途次、小島おじま草庵の親鸞に帰依して出家し、のち栗山の地に当寺を建立したといわれる。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]大宇陀町大字西山

宇陀うだ川左岸にある。遍照山朝徳院と号する。融通念仏宗、本尊阿弥陀如来。創建は宇多法皇の時と伝える。応永一〇年(一四〇三)大念仏宗本山恵観浄善の弟子永欣を中興とする。天正一四年(一五八六)法俊が再興。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]滝野町光明寺

北と東を上滝野村、南と西を下滝野村に囲まれる。五峰ごぶ山の麓に位置し、光明寺(現高野山真言宗)の門前村。高倉たかくら大谷おおたにの集落がある。慶長国絵図に光明寺とみえる。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]下関市大字石原

石原の笑坂いしわらのわろうざかにある。浄土真宗本願寺派で慈雲山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、大内家家臣内藤隆春の臣上原源治兵衛が本願寺証如に帰依、法名教宗をもらい、天文二年(一五三三)員光かずみつ村に創建、天正七年(一五七九)に現在地へ移転。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]東予市三芳

もと大明神だいみようじん川の河口に近い六反地ろくたんじにあったが、江戸時代に今の中村の街の中に寺地を移した。真言宗御室派、観音山と号す。本尊は大日如来。

伊予温故録」によると孝徳天皇の代、恵空が創建、天武天皇の頃に勅願寺となり越智玉興が再建、のち河野通信が修理したが兵火にかかり衰微、天文二年(一五三三)四月河野通宣が中興し、以来河野家の祈願所とした。


光明寺
こうみようじ

[現在地名]大和郡山市柏木町

柏木かしわぎ町西端に位置。王宮山と号し、浄土宗。本尊の木造阿弥陀如来および両脇侍立像(国指定重要文化財、室町時代初期)は、鎌倉中期以降に流行した来迎三尊形式。木造伝善導大師像(同文化財、室町時代初期)は椅子の上に結跏し、右手に払子をとり左手を伏せたもので、浄土祖師画像によくみられる形式を彫像化した珍しいものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「光明寺」の意味・わかりやすい解説

光明寺 (こうみょうじ)

京都府長岡京市粟生にある西山浄土宗の総本山。山号を報国山,院号を念仏三昧院という。1227年(安貞1)いわゆる嘉禄法難のとき,延暦寺の衆徒が東山の大谷にある浄土宗の祖法然房源空の廟堂を破却すると,源空の門弟たちは師の遺骸を嵯峨や太秦(うずまさ)にかくしたすえ,粟生野(あおの)で荼毘(だび)に付し,遺骨の一部と灰を埋めた。この地に建てた廟所が初めという。また寺伝では,源空が延暦寺を離れて庵室を結んだ西山の広谷は,光明寺の山の後に当たり,その弟子熊谷直実もこの地に結庵し,別に阿弥陀堂も建立し,師を招請して開山としたと伝える。1242年(仁治3年)奇瑞に対して,四条天皇から光明寺の勅額が下され,そののち浄土宗西山義の祖善慧房証空が入寺し,やがてその弟子で西山義西谷流の祖法興浄音が住してから同流の寺となった。元弘の兵乱によって荒廃し,また応仁の兵火にもかかったので,この期間のことは明らかでないが,1507年(永正4)15世乗運空撮の代に,後柏原天皇から西山義第一の寺であるから香衣を着して参内することを許され,16世舜空秀旭の代には,34年(天文3)後奈良天皇の勅願となり,紫衣の綸旨も受けた。しかしそののち寺勢は振るわず,82年(天正10)に明智光秀の兵火に焼失したが,徳川家康の外護もあって寛永のころまでには堂舎も復興し,1654年(承応3)には常紫衣を許され,江戸時代にはかなりの隆盛を示した。
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光明寺 (こうみょうじ)

神奈川県鎌倉市にあり,天照山と号する浄土宗の大本山。仁治年中(1240-43),執権北条経時が佐介ヶ谷に一宇を建立,帰依の僧然阿良忠を迎えて開山とした。初め蓮華寺また悟真寺と称したが,のち現在地に移し霊夢を得て光明寺と改めたという。8世観誉祐崇は1495年(明応4)宮中に召され,清涼殿にて浄土三部経ならびに引声念仏を修して後土御門天皇の帰依を厚くし,同年勅願所の綸旨を賜るとともに,十夜法要の勅許を得た。これが〈お十夜〉のはじまりである。ながく浄土宗関東総本山として君臨し,1591年(天正19)に寺領10貫文を,1675年(延宝3)には朱印100石を賜った。江戸時代には関東十八檀林の一として栄え,末寺56ヵ寺を有した。
執筆者:


光明寺 (こうみょうじ)

三重県伊勢市にある臨済宗の寺。山号は金鼓山。はじめ聖武天皇の勅願寺。鎌倉末期の1319年(元応1),恵観禅師が山田吹上の地に再建し,臨済禅寺になった。そののち寺地は,1681年(天和1)再度現地に移った。当寺は南朝ゆかりの寺で,結城宗広(ゆうきむねひろ)が当寺に拠って衰退する南朝の再挙を計ったが,むなしく当寺で没したという悲史がある。その関係で,有名な《光明寺残篇》など南朝関係の古文書多数がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「光明寺」の意味・わかりやすい解説

光明寺(神奈川県)
こうみょうじ

神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗の寺。天照山(てんしょうざん)蓮華院(れんげいん)と号し、もと関八州総本山、浄土宗の学問所たる関東十八檀林(だんりん)の首位であった。執権北条経時(つねとき)が1240年(仁治1)佐助(さすけ)ヶ谷に一宇を創建して蓮華寺と称し、記主(きしゅ)禅師良忠(りょうちゅう)を開山に迎えたのを始まりとする。1247年(宝治1)これを現在地に移し、諸堂を修築して現在の名称に改め、以後北条、足利(あしかが)、徳川各氏の外護(げご)を受けて大いに栄えた。10月12~15日の十夜(じゅうや)法要(御十夜)は名高く、これは1495年(明応4)8世観誉祐崇(かんよゆうそう)が宮中に召されて引声念仏(いんぜいねんぶつ)を修したのにより、勅許を得てこれを当寺に移し行い、以来毎年10月にこれを修するようになったもので、全国の浄土寺院で行う十夜念仏の初めである。堂舎は関東大震災の際におおむね倒壊して再営したもの。境内の庭園は小堀遠州作と伝え、蓮池には大賀博士の千年蓮が移植されている。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。什宝(じゅうほう)の當麻曼荼羅縁起(たいままんだらえんぎ)2巻は国宝、當麻曼荼羅図1幅、浄土五祖絵伝1巻、十八羅漢(らかん)および僧像19幅は国重要文化財に指定されている。

[森 章司]



光明寺(京都府)
こうみょうじ

京都府長岡京市粟生(あわお)にある西山(せいざん)浄土宗の総本山。報国山(ほうこくさん)念仏三昧院(ねんぶつざんまいいん)と号する。1198年(建久9)、熊谷(くまがい)入道蓮生(れんしょう)(次郎直実(なおざね))がここに一宇を建て、師の源空(法然(ほうねん))を請(しょう)じて開山としたのに始まる。1212年(建暦2)源空は入滅、大谷の地に葬られた。しかし念仏停止(ちょうじ)の動きに伴い、叡山(えいざん)の衆徒によってその墓堂が墳墓破壊されたため、遺体はここに移されて荼毘(だび)に付され、塔を建て廟堂(びょうどう)が造営されて寺基が定まった。当時、石棺より光明を放つという奇瑞(きずい)があったので、勅額を賜って寺号としたという。ついで西山派祖証空(しょうくう)がここに住して大いに寺風を振興し、一派の根本道場となった。寺門は戦乱に巻き込まれてしばしば荒廃に瀕(ひん)したが、32世倍山俊意(ばいざんしゅんい)が中興、しかしまたも火災で炎上して、1736年(元文1)以降営々と復興に努め、現在は阿弥陀(あみだ)堂、御影(みえい)堂などが建ち並ぶ。御影堂本尊は宗祖源空が流罪中に母堂からの消息を張ってつくったという張御影(はりこのみえい)。什宝(じゅうほう)に千手観音(せんじゅかんのん)立像、二河白道(にがびゃくどう)図、四十九化仏弥陀来迎図(ともに国重要文化財)がある。

[森 章司]


光明寺(島根県)
こうみょうじ

島根県出雲(いずも)市馬木(まき)町にある日蓮(にちれん)宗の寺。山号は妙経(みょうきょう)山または不動山。行基(ぎょうき)作と伝える(諸種の鑑定では鎌倉時代の作)5尺2寸(約156センチメートル)余の不動尊を祀(まつ)るので、馬木不動尊と通称される。往昔は日輪山光明寺と称し、真言宗あるいは禅宗に属したが、1631年(寛永8)に日蓮宗に転じた。現在ではこのときの本法院日実(にちじつ)を開山と定めているが、あるいは『出雲国風土記(ふどき)』が、「新造院一所、朝山郷の内にあり、云々」という新造院に起源を有するかとも推測される。旧幕時代には松江藩主松平家よりの信を受けたので、三つ葉葵(あおい)御紋章入長柄など松平家に関する什宝(じゅうほう)を蔵する。毎月28日に不動尊縁日、毎年夏土用丑日(うしのひ)に不動尊大祭が行われる。

[森 章司]

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百科事典マイペディア 「光明寺」の意味・わかりやすい解説

光明寺【こうみょうじ】

京都府長岡京(ながおかきょう)市にある西山浄土(せいざんじょうど)宗の総本山。1227年の嘉禄法難(かろくほうなん)で法然(ほうねん)の廟堂が破却された後,荼毘に付された法然の遺骨の一部と灰を埋めた地に建立した廟所に始まるとか,法然の弟子蓮生(れんしょう)(熊谷直実(くまがいなおざね))が師を招いて建立ともいう。後証空(しょうくう)が入寺し西山派になった。1582年に明智光秀(あけちみつひで)の兵火で焼失。徳川家康の外護で復興,常紫衣(しえ)を許され栄えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「光明寺」の意味・わかりやすい解説

光明寺
こうみょうじ

神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗の大本山の1つ。天照山蓮華院と号す。開基に関しては,この寺の前身とされる蓮華寺をめぐって2説があるが,一般には鎌倉幕府の執権北条経時とされる。開山である良忠は,代々の執権の保護を受けて布教・教育に励み,浄土宗の三祖と仰がれるにいたった。また,その弟子2世良暁は白旗派の祖とされる。明応4 (1495) 年勅許を受け,のち浄土宗寺院で広く行われるようになった十夜法要 (毎年 10月に行われる念仏法要) の伝統的な流儀を伝える。奈良・当麻寺の『当麻曼荼羅』にまつわる伝説を描いた国宝『当麻曼荼羅縁起絵巻』ほか,重要文化財の浄土五祖絵など貴重な美術品を多く所蔵する。

光明寺
こうみょうじ

京都府綾部市にある寺。創立は明らかでないが真言修験道当山派の開祖,聖宝 (832~909) の創立といわれる。二王門が有名で宝治2 (1248) 年の建立。下層にも屋根のある二重門で,仁王が後方にあって仏堂的扱いをしている。中世二重門の代表的遺構であり,国宝。

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事典 日本の地域遺産 「光明寺」の解説

光明寺

(兵庫県加東市光明寺433)
加東遺産」指定の地域遺産。
真言宗の古刹で「播磨高野」とも呼ばれる。丹波路を見下ろす高所にあり、交通の要衝であったことから度々戦の舞台となった。中でもよく知られるのが、1351(観応2)年足利尊氏と弟・直義が対立した、いわゆる「光明寺合戦」である。1925(大正14)年に再建された入母屋造り銅板葺きの本堂のほか、平安時代後期の銅造如来坐像(国指定重要文化財)、一幅善導大師画像などの文化財が残されている。紅葉の名所としても知られる

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

デジタル大辞泉プラス 「光明寺」の解説

光明寺〔京都府〕

京都府綾部市にある寺院。真言宗醍醐派。山号は君尾山、本尊は千手観音。寺伝では聖徳太子の開創、空海の弟子・理源が延喜年間に真言道場として再興したとされる。1248年に建立された二王門は国宝に指定。

光明寺〔神奈川県鎌倉市〕

神奈川県鎌倉市にある寺院。浄土宗大本山。山号は天照山。仁治年間(1240~43)、北条経時が佐介谷(さすけがやつ)に創建した蓮華寺を移転して改称。秋の十夜法要(お十夜)で知られる。

光明寺〔神奈川県平塚市〕

神奈川県平塚市にある寺院。天台宗。山号は金目山。本尊の聖観世音菩薩にちなみ、金目観音とも呼ばれる。坂東三十三観音第7番札所。

光明寺〔兵庫県〕

兵庫県赤穂市にある高野山真言宗の寺院。山号は黒澤山。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「光明寺」の解説

光明寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

光明寺

(神奈川県鎌倉市)
かながわの花の名所100選」指定の観光名所。

光明寺(第7番)

(神奈川県平塚市)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の光明寺の言及

【綾部[市]】より

…大本教の発祥地であり,その本部がここと亀岡市に置かれている。山陰本線沿線の山家には谷氏1万石の山家陣屋跡があり,東部の君尾山にある光明寺は国宝の二王門で知られる。【浮田 典良】。…

【関東十八檀林】より

…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉光明寺,武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝増上寺,下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川伝通院,上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…

※「光明寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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