日本歴史地名大系 「新川郡」の解説
新川郡
にいかわぐん
- 富山県:越中国
- 新川郡
〔古代〕
郡名は「万葉集」巻一七に、収める天平一九年(七四七)四月二七日の「立山賦」(大伴家持作歌)の注記に「此立山者、有新川郡也」とあるのが早い。訓は同賦のなかに「尓比可波」とあり、「和名抄」東急本の国郡部は「迩布加波」とする。「新川」の郡名は越中国以外にみえないが、奈良時代の「新」字は、「万葉集」が「新室」(巻一一)を「尓比牟路」(巻一四)とも表記しており、ここではニヒカハの読みを採用する。「続日本紀」大宝二年(七〇二)三月一七日条に「分越中国四郡属越後国」とみえるが、これらの諸「郡」は前年の大宝令の規定によって成立したもので、それ以前は「評」と呼称された。越中国内の当郡も礪波評などとともに新川評として存立した可能性が高い。「万葉集」巻一七には、天平二〇年春、大伴家持が出挙のため越中諸郡を巡行したさい、新川郡の・丈部・佐味は庄名にも現れ、奈良東大寺領では天平宝字三年(七五九)一一月一四日の東大寺越中国諸郡庄園総券(東南院文書)に丈部村・大藪野、天平神護三年(七六七)五月七日の越中国司解(同文書)に丈部庄・大
庄、奈良西大寺領では宝亀一一年(七八〇)一二月二五日の西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵)に佐味庄がみえる。これらの庄名が郷名に由来したとすれば、他の郷名も奈良時代にすでに成立していた可能性が高い。川枯は、神護景雲元年(七六七)一一月一六日の新川郡大
村墾田地図(正倉院蔵)に「従郡川枯往道」とみえ、新川郡家より川枯郷へ行く道を示している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報