新発田重家(読み)しばた・しげいえ

朝日日本歴史人物事典 「新発田重家」の解説

新発田重家

没年:天正15.10.25(1587.11.25)
生年:生年不詳
戦国安土桃山時代武将。新発田綱貞の次男越後生まれ。通称源太,因幡守を称した。越後新発田五十公野城の城主で,上杉謙信に仕え,謙信没後,2人の養子景勝と景虎が家督を争った御館の乱のときは景勝方として景勝の相続に貢献している。その後恩賞の不満などから景勝を離れ,天正9(1581)年以降,織田信長と結んで景勝と抗争し,信長死後も対立し,豊臣秀吉が景勝と結ぶと越中の佐々成政と結ぶなどしたが,成政が秀吉に降ったあと,同15年,景勝軍に攻められ,重家は自刃,新発田氏は滅亡した。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新発田重家」の解説

新発田重家 しばた-しげいえ

?-1587 戦国-織豊時代の武将。
新発田綱貞の次男。越後(えちご)(新潟県)新発田五十公野(いじみの)城主で,上杉謙信につかえる。謙信没後の御館(おたて)の乱では上杉景勝(かげかつ)につき,景勝の上杉家相続につくす。のち織田信長とむすんで景勝に対抗。信長の死後,豊臣秀吉とむすんだ景勝に攻められ,天正(てんしょう)15年10月25日自害。通称は源太。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の新発田重家の言及

【越後国】より

…景勝にとっては生命線ともいえる越中の魚津城が陥落して,織田軍の越後侵入目前というときに,本能寺の変が起こって,景勝は救われた。景勝はただちに信濃などの領国化を進めたが,国内ではこの間に下越後の豪族新発田重家が離反した。重家は,信長,ついで豊臣秀吉と通じていたから,景勝はいやおうなく中央政権と関係をもつにいたった。…

※「新発田重家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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