スペインの小説家、劇作家、詩人。
[桑名一博]
1547年の9月末ごろ、マドリードに近い大学町アルカラ・デ・エナレスで生まれたが、正確な誕生日はわからない。洗礼は10月9日にサンタ・マリア・ラ・マヨール教会で受けている。父親は耳の不自由な外科医。セルバンテスの幼・少年期に関することは正確なところはわからない。父親が各地を転々とする生活を送ったので、たぶんどこかの地で短期間ながらイエズス会系の学校にでも通ったのではないかと推測される。
[桑名一博]
彼の名前が初めて文献に現れるのは、1568年にマドリードに住む人文学者ロペス・デ・オヨスが出版したフェリペ3世の王妃を追悼する詩文集で、「わが秘蔵の愛弟子(まなでし)」とよばれたセルバンテスの詩が三編ほど収められている。しかし翌年には彼はイタリアに渡っており、まず枢機卿(すうききょう)アックワビーバの侍僕(じぼく)となるが、1570年にはナポリに赴き、弟ロドリーゴのいる部隊に入隊して兵士となっている。そして翌1571年には歴史上有名なレパントの海戦に参加し、胸や腕に傷を負う。左腕に受けた傷は悪化し、のちには左手が自由に使えなくなったが、自ら「右手の名誉をさらにあげるために」左手の自由を失ったのだと、最後までこの名誉の負傷を誇りにしていた。彼はしばらく療養したあと、ふたたび軍役に復し、弟ロドリーゴとともにナバリノの海戦、チュニス攻略などに参加し、パレルモやナポリに駐屯したが、1575年、国王の異母弟であるドン・フアン・アウストリア提督の感状と、シチリアの副王の推薦状をもって帰国の途についた。
[桑名一博]
彼と弟が乗っていた船は、当時地中海を横行していたトルコの海賊船に襲われ、セルバンテスは他の乗船者とともに捕虜となり、アルジェに連れて行かれ、その地で5年間の奴隷生活を送ることになる。彼はその間に数度の逃亡を試みていずれも失敗しているが、奇跡的に処刑を免れることができた。結局、1580年に身代金を払ってもらってようやく自由の身となった。
スペインに帰国後は、思わしい職が得られないまま文筆で身をたてることを志し、1587年までに20~30編の戯曲を書いたようだが、現存しているのは『アルジェの牢屋(ろうや)』と『ヌマンシア』の二編だけである。このころに書いた作品でいくらか成功を収めたのは、当時流行していた牧人小説の『ガラテーア』(1585)で、セルバンテスはこの作品には深い愛着をもっていたらしく、死の直前まで何度か続編を書く約束を繰り返している。
1584年に18歳下の娘と結婚し、彼女の持参金によって生活が安定するかにみえたが、続いて起きた父親の死のために家族を養う必要が生じ、1587年にはセビーリャへ行って無敵艦隊の食糧徴発係になった。この仕事に従事しているときに司教領からの徴発をやりすぎ、教会から破門されたこともある。さらにグラナダで徴税吏になってからも、公金を預けておいた銀行家が破産して失踪(しっそう)する事件に巻き込まれたり、マドリードへの召喚命令に従わなかったことが原因で、一度ならず入獄しており、ついには官職から追われることになった。この期間に、彼の名を不朽なものとした『ドン・キホーテ』(第一部・1605)を書き上げている。この作品は出版と同時に大好評で版を重ねたが、版権を安い金で売り渡していたので、彼の生活はその後もいっこうに楽にならなかった。
[桑名一博]
1605年に、彼が住んでいたアパートの近くで起きた刃傷(にんじょう)事件に関して嫌疑をかけられたことがあるが、彼はその後も絶えず、主として金銭問題から、法律上のいざこざに巻き込まれていたようである。そのため、10年にナポリの副王に任命されたレモス伯爵の随員になることを願ったが、この希望はかなえられなかった。だが、このように恵まれない生活を送っていたにもかかわらず、晩年の文学活動はきわめて活発である。
まず、12編の中・短編小説を収めた『模範小説集』(1613)を出版したのを皮切りに、当時の詩人たちを批評した長編詩『パルナソ山への旅』(1614)や、『新作戯曲8種と幕間狂言8種』(1615)をたて続けに出版した。1615年には『ドン・キホーテ』の第二部も出版している。そして1616年には、彼にいわせると、スペイン語で書かれた最良の、もしくは最悪の創作だという『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』(1617没後刊)を完成させ、死の床できわめて感動的な献辞を書いている。セルバンテスは1616年4月23日、マドリードで死んだ。
[桑名一博]
『荻内勝之訳『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』上下(1980・国書刊行会)』▽『カルロス・フエンテス著、牛島信明訳『セルバンテスまたは読みの批判』(1982・風の薔薇)』
スペインの作家。旧トレド王国の大学町アルカラ・デ・エナレス生れ。貧しい外科医の息子だったセルバンテスは家族とともに各地を転々とし,正規の教育はほとんど受けなかったと思われるが,マドリードで著名な人文学者ロペス・デ・オヨスに師事したことは確かである。1568年に編さんされた亡き王妃イサベル・ド・バロア追悼詩文集に,編者のロペス・デ・オヨスがセルバンテスの詩数編を載せ,〈わが秘蔵の弟子〉と呼んでいるからである。〈太陽の沈むことなき大帝国〉であったフェリペ2世時代のスペインの熱風にあおられた若きセルバンテスは,22歳のときにイタリアに渡って兵士となり,1571年には史上有名なレパントの海戦で活躍したが負傷して左手の自由を失い,〈レパントの片手ん坊〉の異名を得た。75年退役して帰国の途中,トルコの海賊に捕らえられ,アルジェで5年間の捕虜生活を送る。この間キリスト教徒のリーダーとして何度も脱走を試み,英雄的な存在となる。80年(33歳),ようやく身代金によって釈放されて帰国したが,ここで彼の希望に満ちた英雄的な行動の時代が終わり,晩年になって開花するところの〈周縁の人〉としての後半生が始まる。折しもカトリックによる世界征覇を夢見た祖国にもかげりがさし,スペインは急速に衰退の道をたどるようになる。11年にわたる外国滞在はセルバンテスの意識と祖国スペインとの間に大きな溝をつくったと考えられるが,事実,過去の戦功がいっさい顧みられることなく,職にありつけなかった彼は,文筆に活路を求めて牧人小説《ラ・ガラテーアLa Galatea》(1585)といくつかの戯曲を書いたものの成功しなかった。かくして87年から15年余の長きにわたって,海軍の食糧徴発人に,また収税吏に身をやつしてアンダルシア各地を歩き回り,入獄までしながら,不明な部分の多いアウトサイダー的な生活を送る。このようにセルバンテスは,《ラ・ガラテーア》の執筆を別にすれば,30歳から60歳という,一般的には作家の活動的な時期のほとんどを,外国で兵士あるいは捕虜として,またアンダルシアの野を歩き回る小役人として費やし,次の世代が活躍している時期,すなわち自身の老境において作家活動を行ったのである。
上述のような英雄的苦難と屈辱的苦難を経て年老いたセルバンテスが,おそらくは1602年のセビリャでの入獄中にその想を得たのが《ドン・キホーテDon Quijote》(1605,15)であってみれば,そこに自身と祖国スペインの過去が色濃く反映しているのはむしろ当然であろう。彼は狂気の騎士ドン・キホーテを介して,熱にうかされていた英雄的な祖国と自身の高揚と挫折を描いたのであり,みずからの過去を否定すると同時に愛着を覚え,泣きながら笑ったのである。《ドン・キホーテ》に次いで重要なのは12の短編からなる《模範小説集Novelas ejemplares》(1613)である。セルバンテスはその序文で,〈わたしはスペイン語で初めて短編小説を書いた男だ〉と自負しているが,事実,それまでのイタリアの作品をそのまま引き写したようなものと違って独創的なものであり,なかでも《リンコネーテとコルタディーリョ》《ガラスの学士》《ジプシー娘》などは珠玉の作品である。《ドン・キホーテ》と《模範小説集》が,当時の文学状況における革新的な作品であるのに対し,処女作の《ラ・ガラテーア》と遺作《ペルシーレスとシヒスムンダの苦難Los trabajos de Persiles y Sigismunda》(1617)は,それぞれ〈牧人小説〉〈巡礼小説〉という当時流行の形式の枠内に安住して,そのなかで作者が自在に想像力を飛翔させたものといえる。2人の主人公が波乱に満ちた長い巡礼の後,聖都ローマにいたって大願成就という《ペルシーレスとシヒスムンダの苦難》には愛のテーマ,詩的要素,神秘性がセルバンテス独自の高雅な文体で展開されている。ほかに詩作品としては,当時の文壇を風刺した《パルナーソ山への旅》,戯曲としては《ラ・ヌマンシア》や《ペドロ・デ・ウルデマーラス》といった佳作をのこしている。
執筆者:牛島 信明
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1547~1616
スペインの作家。貧しい外科医の子として生まれ,正規の教育を受けずに成長。24歳でレパントの海戦に従軍し左手の自由を失う。その後トルコのガレー船につかまり,アルジェリアで5年間の捕虜生活を送る。みずからの武勲を誇りに帰国するが周囲には認められず,貧しい下級官吏として各地を転々とし,入獄も経験した。晩年に入り作家活動を開始し,名作『ドン・キホーテ』を著した。
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…1554年に出版された作者不詳の《ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯》がその嚆矢となったが,このジャンルはマテオ・アレマンの《悪者グスマン・デ・アルファラーチェの生涯》を経て,スペイン・バロック期最大の文人フランシスコ・デ・ケベードの《かたり師,ドン・パブロスの生涯》でその極に達した。そして不朽の名作《ドン・キホーテ》により,上述の二つの小説の傾向を融合し,創造の中に創造の批判を根づかせることによって厳密な意味での近代小説をつくり出したのがミゲル・デ・セルバンテスである。セルバンテスの重要な作品としてはほかに,12の短編からなる《模範小説集》(1613)がある。…
…権力を嘲笑した道化的哲学者ディオゲネスに自分を擬したラブレーは,道化の杖をペンに持ちかえて,世界を哄笑のうちに活性化する。他方,セルバンテスの《ドン・キホーテ》は,ガルガンチュアやフォールスタッフとは似ても似つかぬ,やせて,不眠症で,理想主義的な〈憂い顔の騎士〉ドン・キホーテを登場させる。高貴な〈精神の道化〉と,彼に召使として仕える猥雑な〈肉体の道化〉サンチョ・パンサ,この2人とともにルネサンスの〈道化文学〉の黄金時代は終わる。…
…スペインの作家セルバンテスが1605年に前編を,1615年に後編を発表した小説で,正式の題名は《才智あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャEl ingenioso hidalgo Don Quijote de la Mancha》。セルバンテスは〈前編〉の序文において,この作品が牢獄の中で生まれたことをほのめかしているが,おそらく1602年,55歳の彼がセビリャで入獄していたときにその構想を得たか,書き始めたものと考えられる。…
…それにもかかわらず,やがてスキピオ(小)の率いる6万人のローマ軍によって鎮圧された。この戦いは,スペイン人の愛国心を鼓舞するできごととして長く記憶され,セルバンテスも戯曲《ヌマンシア》を書いている。またR.アルベルティは内戦中にフランコ軍によって包囲されたマドリードを舞台にして同名の戯曲(初演1937)を書いた。…
…16世紀最大と評されるこの海戦は,ただちには東西両陣営の形勢逆転に結びつかなかったが,キリスト教諸国は不敗とされてきたオスマン海軍に対する萎縮感から解放されて自信を回復,またスペインの海軍力が世論の注目を集めた。文豪セルバンテスは,一兵卒として参戦して負傷,後にこの海戦を〈かつてなかった最も偉大な一瞬〉と呼んだ。【小林 一宏】。…
… 16世紀の中世的な価値の崩壊から18世紀の近代社会の確立までの間に,ヨーロッパは3人の偉大な〈笑い人間〉を生み出している。ラブレーとセルバンテスとスウィフトである。ラブレーにとって笑いは〈人間の本性〉だった。…
※「セルバンテス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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