星川皇子(読み)ほしかわのみこ

改訂新版 世界大百科事典 「星川皇子」の意味・わかりやすい解説

星川皇子 (ほしかわのみこ)

雄略天皇皇子とされ,清寧天皇と皇位を争ったと伝えられる人物。星川王とも記す。《日本書紀》雄略1年3月条に,吉備上道臣きびのかみつみちのおみ)の女稚姫(一本には吉備窪屋臣の女)を妃として皇子を生んだとみえる。同23年8月条には天皇の遺詔として,後継者に不適な資質と指弾される。同月の天皇没後,母の稚姫に教唆され大蔵の官を取るが,雄略天皇の遺詔を奉じた大伴室屋東漢掬(やまとのあやのつか)により大蔵を包囲され,母や異父兄とともに焼殺される。吉備上道臣らは皇子救援のため船師40艘を派遣,皇子の焼殺を聞き引き返すが,清寧天皇はこれを責め,その領する山部を奪ったことが清寧天皇即位前紀にみえる。
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朝日日本歴史人物事典 「星川皇子」の解説

星川皇子

生年生没年不詳
『日本書紀』にみえる雄略天皇の皇子。母は吉備上道臣の娘稚媛とするが異伝もある。『日本書紀』によれば雄略天皇の死,清寧天皇即位に際し,母稚媛の勧めで反乱を起こし大蔵を抑えるが,乱を知った吉備上道臣(名は不詳)の皇子支援水軍の到着を前に大伴室屋,東漢掬 の軍に鎮圧され,焼き殺された。吉備上道臣という吉備地方(岡山県)の有力首長の軍事力を背景に王権簒奪を図るという注目すべき反乱伝承であり,大王家と婚姻関係を持つ吉備勢力の特異な立場を反映している。乱後,清寧天皇は上道臣支配下の山部を取り上げたという。『古事記』にはみえない。

(関和彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「星川皇子」の解説

星川皇子 ほしかわのおうじ

「日本書紀」にみえる雄略天皇の皇子。
清寧天皇即位の際,母吉備稚媛(きびの-わかひめ)の言にしたがい,皇位につこうとして反乱をおこし大蔵の官(つかさ)をうばいたてこもったが,大伴室屋(おおともの-むろや)らに大蔵を包囲され,母や異父兄らとともにやき殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の星川皇子の言及

【東漢掬】より

…また雄略朝に百済から貢上した今来才伎(いまきのてひと)(新来の手工業技術者)の陶部(すえつくり),鞍部(くらつくり),画部(えかき),錦部(にしごり),訳語(おさ)などの管理を命ぜられた。雄略天皇の臨終に際しては,とくに大連(おおむらじ)の大伴室屋と掬とに遺言して,白髪皇子(清寧)を後継の天皇に立てることを託したが,天皇が死ぬと星川皇子が皇位につこうとし,母の吉備稚媛(きびのわかひめ)の教えに従って大蔵を占拠したので,室屋と掬は兵を発して大蔵を囲み,火を放って皇子らを焼き殺したという。東漢氏(やまとのあやうじ)はのち大いに発展して数十の氏に分かれ,また多数の帰化系の小氏や部民を指揮・管理するようになったので,後世になると,もとは中国の漢の帝室の後裔で,その後朝鮮の楽浪・帯方郡に移り,そこから17県という多数の党類を率いて日本に渡来したというような祖先伝説を構作するようになるが,それらはにわかには信じがたい。…

※「星川皇子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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