東漢掬(読み)やまとのあやのつか

改訂新版 世界大百科事典 「東漢掬」の意味・わかりやすい解説

東漢掬 (やまとのあやのつか)

5世紀後半ころの廷臣都加使主(つかのおみ)とも書く。《日本書紀》《古事記》の伝えによれば,応神朝に父の阿知使主(あちのおみ)とともに中国系と称して朝鮮半島から渡来し,同朝の末年に父とともに呉(くれ)(中国江南の地)の国に遣わされて縫織の工女を伴い帰った。また雄略朝に百済から貢上した今来才伎(いまきのてひと)(新来の手工業技術者)の陶部(すえつくり),鞍部(くらつくり),画部(えかき),錦部(にしごり),訳語(おさ)などの管理を命ぜられた。雄略天皇の臨終に際しては,とくに大連(おおむらじ)の大伴室屋と掬とに遺言して,白髪皇子(清寧)を後継の天皇に立てることを託したが,天皇が死ぬと星川皇子皇位につこうとし,母の吉備稚媛きびのわかひめ)の教えに従って大蔵を占拠したので,室屋と掬は兵を発して大蔵を囲み,火を放って皇子らを焼き殺したという。東漢氏やまとのあやうじ)はのち大いに発展して数十の氏に分かれ,また多数の帰化系の小氏や部民を指揮・管理するようになったので,後世になると,もとは中国の漢の帝室の後裔で,その後朝鮮の楽浪・帯方郡に移り,そこから17県という多数の党類を率いて日本に渡来したというような祖先伝説を構作するようになるが,それらはにわかには信じがたい。また掬に関する伝えも応神朝から雄略朝の末までにわたっていて,どこまで確かな事実かわからない。しかし掬のときから新来の帰化系の技能者を多くその配下に組織化して,東漢(倭漢)直(やまとのあやのあたい)という氏姓を称するようになったこと,《新撰姓氏録》〈坂上系図〉などが伝えるように,掬の次の世代に兄腹,中腹,弟腹の3系統に分かれ,それが6,7世紀にかけて,さらに多数の氏に分かれて,大いに蕃衍していったことはほぼ確かであろう。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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