朝日日本歴史人物事典 「春日山田皇女」の解説
春日山田皇女
6世紀前半,安閑天皇の皇后。仁賢天皇と和珥日爪(日触)の娘,糠君娘(大糠娘,糠若子郎女)との皇女。山田赤見皇女,山田大娘皇女,赤見皇女,春日小田郎女とも。また『日本書紀』に欽明天皇皇女とある春日山田皇女は同一人物で,伝承の錯誤によって混乱が生じたものであろう。継体7(513)年秋,勾大兄皇子(安閑天皇)と夜を通じて清談し,歌を贈答し合った。翌年子がないのは皇子のせいだと悲しみ,自らの名を残すために御名代として匝布屯倉(奈良市佐保川町)を天皇から賜った。欽明天皇は即位前,自分は年少で政事に未熟であるという理由で,母の妹で兄安閑天皇の皇后であった春日山田皇女に政務を譲ろうとした。しかし,皇女は辞退して逆に皇子の即位を進言している。もし受けていれば,飯豊女王や推古天皇のような女帝が実現したはずであったが,幻の女帝に終わった。墓は『日本書紀』では安閑天皇陵(古市高屋丘陵)に合葬されたとみえるが,『延喜式』では,別な古市高屋墓(羽曳野市大字古市字八幡山の円墳)となっている。
(明石一紀)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報