是安村(読み)これやすむら

日本歴史地名大系 「是安村」の解説

是安村
これやすむら

[現在地名]城端町是安

山田やまだ川左岸、東は川を隔てて北野きたの村、南は野田のだ村、西は細木新ほそきしん村、北は大窪新おおくぼしん村。慶長一六年(一六一一)の本多政重宛の知行所目録(加越能文庫)によれば、当村の七七七石余が宛行われている。元和五年(一六一九)の家高新帳に「これ安」とあり、せと与に属し、役屋数一三。正保四年(一六四七)の「越中道記」に当村から城端町まで道幅五尺で一二町とある。正保郷帳では高九七七石余、田方六一町八反・畑方三町三反余。

是安村
こりやすむら

[現在地名]丹後町是安

岩木いわき村の南方、是安川の上流に位置する。東西に山を負い、南北に細長く耕地が開ける。地名は丹後国田数帳に「是安保 三町九段三百廿九歩 松田九良左衛門」とみえるのが早い。なお中世末の丹後国御檀家帳に「吉長の内寺谷 家百軒斗」とあり、その項に「新宮寺大寺なり」との文言がみえるが、村名が慶長検地郷村帳に記されず、延宝三年郷村帳に「吉永村是安分」高一五七・五八三石として出ることから、新宮寺は是安の神宮じんぐう寺をさし、したがって「寺谷」は是安の地をいうように思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報