城端町(読み)じようはなまち

日本歴史地名大系 「城端町」の解説

城端町
じようはなまち

[現在地名]城端町 東上町ひがしかみまち西上町にしかみまち東下町ひがししもまち西下町にししもまち大工町だいくまち出丸町でまるまち新町しんまち野下町のげまち東新田町ひがししんでんまち西新田町にししんでんまち南町みなみちよう

浄土真宗廓龍山善徳ぜんとく寺の寺内町として開かれ、市場町門前町・絹織物産地として発展した。町域は東にいけ川、西に山田やまだ川が北流する段丘上に形成され、北方に礪波平野が広がり、南方には高清水たかしようず山系の山々がそびえ、峠越えに五箇山ごかやまの村々へ通じる。善徳寺は永禄二年(一五五九)じようはな城主荒木大膳の請いにより福満ふくみつ(現福光町)から移住したと伝え、恵心僧都の作という阿弥陀如来像と城門などの寄進を受けた(「城端善徳寺由緒略書」・「城端御坊御由緒略記」善徳寺文書)。これによって城ヶ鼻は一向一揆の拠点の一つとなり、寺内町が形成された。

〔成立と発展〕

天正元年(一五七三)井口いのくち(現井口村)と山田(現城端町・福光町)にあった市が城ヶ鼻へ移転した。井口は一〇の日、山田は四の日の三斎市であったが、この二つの市が集中することによって六斎市となり、市場町となった(「城端町旧記」石川県金沢市立図書館蔵)。同八年石山本願寺が織田信長と和睦、信長の部将佐々成政が越中へ進み、一向一揆は撃破され、同一〇年には城ヶ鼻も成政の部将河地才右衛門が支配した(城端町史)。しかしこの情勢も長くは続かず、同一三年成政は羽柴秀吉に降伏し、秀吉と結ぶ前田利勝(利長)が礪波・射水いみず婦負ねいの三郡を領有した。その頃井波瑞泉いなみずいせん寺は北野きたの村に移っていたが、その地に楽市楽座が許された(「諸事御触抜書」城端図書館蔵)

前田氏は文禄三年(一五九四)井波・城ヶ鼻の大工一〇人に屋敷地を与え(「井波大工居屋敷扶持状」洲崎家文書)、瑞泉寺・善徳寺の復興と門前町の建設が進められた。同年瑞泉寺は北野村から藤橋ふじはし(現井波町)に戻る。また慶長四年(一五九九)城ヶ鼻町の鍛冶五人、井波町の鍛冶四人に屋敷地が扶持された(同文書)。瑞泉寺の井波移転により北野村にあった七日の市は退転、同九年に七日の市を城ヶ鼻しも町に移すことが許され(諸事御触抜書)、城ヶ鼻は九斎市になった。その頃城ヶ鼻には善徳寺門前を中心としたかみ町と新しく成長してきた下町とがあった。同一〇年に行われた礪波・射水両郡の総検地目録には「城ケ端」と記され、ほん町と新町に区分し、本町の中に善徳寺屋敷・御大工五人之屋敷・御大工おだいく町が含まれている(「諸留覚書第五」川合家文書)

城端町
じようはなまち

面積:六四・九九平方キロ

県の南西部に位置し、南はたいら村と上平かみたいら村、西と北は西礪波郡福光ふくみつ町、東は井口いのくち村と利賀とが村。面積のおよそ三分の二が山地で、南東は標高約一一〇〇メートルの高清水たかしようず山・高落場たかおちば山・袴腰はかまごし山が連なり、杉尾すぎお峠・ほお峠・細尾ほそお峠・小瀬おぜ峠がある。袴腰山・小瀬峠の山麓を水源とする山田やまだ川、高清水山の中腹にあるなわヶ池の一帯を水源とするいけ川は流域各村を灌漑し、池川は山田川に合流する。山田川はさらに小矢部おやべ川に合して往時は舟運にも利用され、年貢米などを運搬した。JR城端線は城端駅を終点とし、金沢市から平村に至る国道三〇四号は城端を経て細尾の五箇山ごかやまトンネルを通り国道一五六号に合している。城端の地名は中世末のじようはなの呼称に由来する。

小矢部川と山田川に挟まれた隆起扇状台地立野たてのはらは大規模な発掘調査が行われたこともあって遺跡数が多い。とくに旧石器時代の遺跡は西原にしはらC遺跡・ウワダイラI遺跡・中台なかだいB遺跡・鉄砲谷てつぽうだに遺跡・西山にしやまC遺跡など多数発見されていて、県下では最も密集した地域となっている。縄文時代の遺跡も住居跡が検出されている西原A遺跡・同B遺跡・南原みなみはら遺跡など数多い

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報