有終館跡(読み)ゆうしゆうかんあと

日本歴史地名大系 「有終館跡」の解説

有終館跡
ゆうしゆうかんあと

[現在地名]高梁市中之町

松山藩の藩校。延享三年(一七四六)藩主板倉勝澄によって、ほん丁に学問所が設けられたのがその始まりであった。寛政年中(一七八九―一八〇一)に四代板倉勝政が芦戸利兵衛(黙翁)に命じて学校を建てさせて有終館と命名し、芦戸が初代学頭となった。天保三年(一八三二)むこう丁から出火した大火で焼失し、当時の学頭奥田楽山によって中之なかの丁の下谷しもだに(現紺屋町川)沿いの地に移転、再興された。天保一〇年の大火で再び類焼したが、学頭山田方谷によって再建された。その規模は敷地七八一坪余、建坪一七七坪で、講堂聖廟・剣槍道場・門長屋などの施設があった。家臣子弟は登校が義務づけられており、幕末には学頭のほか会頭約一〇人、句読師約二〇人、生徒数は素読生が約一五〇人、講義生が約一〇〇人であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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