有終館跡(読み)ゆうしゆうかんあと

日本歴史地名大系 「有終館跡」の解説

有終館跡
ゆうしゆうかんあと

[現在地名]高梁市中之町

松山藩の藩校。延享三年(一七四六)藩主板倉勝澄によって、ほん丁に学問所が設けられたのがその始まりであった。寛政年中(一七八九―一八〇一)に四代板倉勝政が芦戸利兵衛(黙翁)に命じて学校を建てさせて有終館と命名し、芦戸が初代学頭となった。天保三年(一八三二)むこう丁から出火した大火で焼失し、当時の学頭奥田楽山によって中之なかの丁の下谷しもだに(現紺屋町川)沿いの地に移転、再興された。天保一〇年の大火で再び類焼したが、学頭山田方谷によって再建された。その規模は敷地七八一坪余、建坪一七七坪で、講堂聖廟・剣槍道場・門長屋などの施設があった。家臣子弟は登校が義務づけられており、幕末には学頭のほか会頭約一〇人、句読師約二〇人、生徒数は素読生が約一五〇人、講義生が約一〇〇人であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

梅雨の季節に入ること。つゆ入り。毎年6月中旬~7月中旬の約1ヵ月間,九州から東北地方は梅雨の季節に入る。これは,北方のオホーツク海高気圧と南方の小笠原高気圧とに挟まれて,揚子江流域から九州,四国,本州...

入梅の用語解説を読む