服部兼三郎(読み)ハットリ カネサブロウ

20世紀日本人名事典 「服部兼三郎」の解説

服部 兼三郎
ハットリ カネサブロウ

明治・大正期の実業家 〓(かねか)服部商店専務。



生年
明治3年11月(1870年)

没年
大正9(1920)年6月

出生地
尾張国丹羽郡古知野村(愛知県江南市)

旧姓(旧名)
堀尾

経歴
はじめ名古屋の糸問屋糸重商店に勤め、のち服部氏の養子となって独立し、27年綿糸問屋服部商店を開いた。投機的取引で短期間のうちに業績を上げ、大正1年商店を〓(かねか)服部商店に改組して専務取締役に就任。大阪や浜松・和歌山・上海などに支店を展開したほか各地に工場を経営する大規模な紡績会社に成長した同社は、のちに興和紡績興和新薬などを擁するコーワグループに発展した。豊田紡績社主豊田佐吉との親交は有名で、またその商社からは石田退三(のちトヨタ自動車社長)ら中京地区を代表する実業家を輩出している。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「服部兼三郎」の解説

服部兼三郎

没年:大正9.6(1920)
生年:明治3.11(1870)
明治大正期綿布卸商から綿糸布生産にまで多角化した名古屋の綿関係事業家。尾張国丹羽郡古知野村(江南市)生まれ。名古屋の織物卸商糸重商店に入り,主人の祖父江重兵衛の養子となるが,独立後の明治27(1894)年服部商店を開業屋号は〓。知多木綿集散のほか,明治末より知多での織布委託の賃織も行い,営業税額1026円の規模となる。先物で買って,実物で売る投機的取引を特徴としたが,相場変動の危険が大きいため,大正3(1914)年より生産工程に進出し,のちの興和紡績の基礎をつくる。織機の開発で有名な豊田佐吉との交流は深く,また同店からは三輪常次郎(興和紡績),石田退三(トヨタ自動車)も出ており,中部財界の源流的人物といえる。<参考文献>中部経済新聞社『中部財界人物伝』,木村茂編『商工興信録』

(籠谷直人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「服部兼三郎」の解説

服部兼三郎 はっとり-かねさぶろう

1870-1920 明治-大正時代の実業家。
明治3年11月生まれ。27年名古屋で綿糸問屋を開業。大正元年株式会社カネカ服部商店に改組し,短期間に業務を拡大し,大紡績企業にそだてあげた。会社はのち興和紡績,興和,興和新薬などのコーワグループに発展した。大正9年6月死去。51歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。旧姓は堀尾。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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