木曾郡(読み)きそぐん

日本歴史地名大系 「木曾郡」の解説

木曾郡
きそぐん

面積:一六八六・八九平方キロ
楢川ならかわ村・木祖きそ村・日義ひよし村・木曾福島きそふくしま町・開田かいだ村・王滝おうたき村・三岳みたけ村・上松あげまつ町・大桑おおくわ村・南木曾なぎそ町・山口やまぐち

県西南部。領域は木曾川を主に、鳥居とりい峠分水界を挟んだ奈良井ならい川上流の流域一帯を占める。木曾は山岳錯綜し、地勢は県下で最も急峻な山岳地帯である。西境一帯の連峰は飛騨ひだ山脈の続きで、飛騨と美濃に境し、御嶽おんたけ(三〇六三・四メートル)がひときわ高くそびえている。飛騨山脈と木曾川の渓谷を隔てて、東に相対するこまヶ岳を主峰とする木曾山脈があり、上伊那・下伊那両郡に境している。北は東筑摩ひがしちくま郡、南は岐阜県東濃とうのう地方に境し、東西約五〇キロ、南北約九〇キロ、その面積はほぼ四国の香川県の広さに相当する。標高四〇〇メートル以上一五〇〇メートルに達する高低差の著しい山間地帯で、南北に縦貫する中山道(現在は国道一九号)には、鳥居峠・馬籠まごめ峠・十曲じつきよく峠の難所があり、伊那へは、牛首うしくび峠・権兵衛ごんべえ峠・大平おおだいら峠・清内路せいないじ峠と、北から数えて四つの峠、南安曇みなみあずみへはさかい峠、飛騨へは長峰ながみね峠・鞍掛くらかけ峠、美濃へは白巣しらす峠・真弓まゆみ峠とみな峠で通じている。

〔原始〕

現在木曾谷では歴史時代の遺跡も加えて約四〇〇の遺跡が知られている。先土器時代の遺跡は、御嶽山麓の開田村古屋敷こやしきをはじめとして全郡下にわたって発掘され、昭和四九年(一九七四)現在一七ヵ所が知られている。そのうち半数は開田村に集中し、古屋敷のほか、柳又やなぎまた小馬背こませなどの遺跡がある。縄文早期、前期の遺跡は少ないが、中期は長野県の他の地方と同様に最もその数が多く、縄文文化を形成している。縄文遺跡に比べて弥生遺跡は少なく、しかも後期のものが大部分で、日義村小沢原こざつぱら遺跡や巴松ともえまつ遺跡などがある。

〔古代〕

木曾のことが文献に現れてくるのは、八世紀の初めで「続日本紀」大宝二年(七〇二)の条に「十二月壬寅、始開美濃国岐蘇山道」とあるのが最初である。更に和銅六年(七一三)、「秋七月戊辰、美濃・信濃二国之堺、径道険隘、往還艱難、仍通吉蘇路」という記事がある。いわゆる木曾路開通の記事で、「岐蘇」「吉蘇」と漢字をあてている。続いて「三代実録」の元慶三年(八七九)の信濃・美濃両国の境界争いの裁決の記事の中に「吉蘇・小吉蘇両村、是恵那郡絵上郷之地也」と「吉蘇きそ村」「小吉蘇村」の二つの村の名が出てくる。そしてこの二つの村がもとになったと思われる「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に「大吉祖おおぎそ庄」(宗像少輔領)、永仁六年(一二九八)の宮某令旨(高山寺文書)に「小枝曾おぎそ庄」(高山寺領)の二つの荘園が現れてくる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の木曾郡の言及

【木曾山】より

木曾川上流域森林地帯の古称。現在の長野県木曾郡(1968年西筑摩郡を改称)全域は,西の御嶽山(おんたけさん),東の木曾山脈に囲まれ,面積の約95%を山林が占め,〈木曾檜(ひのき)〉は日本三大美林の一つとして知られる。 《続日本紀》大宝2年(702)条,和銅6年(713)条に美濃の国司が〈吉蘇(きそ)〉路を切り開いた記事が見えるが,これによって木曾と畿内近国とが結ばれ,木曾山林の開発が緒につくにつれて,美濃・信濃両国が争奪を繰り返すようになったため,879年(元慶3)美濃国恵那郡の所属とされた(《日本三代実録》)。…

※「木曾郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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