日本歴史地名大系 「木造村」の解説 木造村こつくりむら 三重県:久居市木造村[現在地名]久居市木造町新家(にのみ)村の東、雲出(くもず)川左岸の氾濫原上に位置する。木造の名は寿永三年(一一八四)四月五日付の源頼朝下文案(久我家文書)に、池大納言平頼盛の荘園の一つとして現れており、次いで「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に載せる公卿勅使伊勢国駅家雑事勤否散状に、勤仕せざる荘の一つとして「木造寮田」の名がみえる。斎宮寮に属する田があったものと思われる。文治二年四月、俊乗坊重源が東大寺大仏再興祈願のため、伊勢参宮を行った際、「自黒田庄向次宿木造辺」とあって、木造で山田までの伝馬六〇疋を調達している(東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記)。室町時代に伊勢国司北畠氏の一族がここに館を築いて本拠地とし、木造氏を名乗った。その初代は北畠顕能の弟顕俊とされているが、「南方紀伝」などによると、当地に来住したのは三代俊泰(のち俊康)と認められる。その子孫は歴代この付近一二ヵ村を支配するほか、禁裏御料所射和(いざわ)(現松阪市)白粉の代官などを勤めたことも知られる(「守光公記」永正一四年九月一二日条、「言継卿記」永禄七年六月七日条ほか)が、天正一二年(一五八四)一〇月、当主木造具康は豊臣秀吉の部将蒲生氏郷との戦闘に敗れて、尾張へ去った。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報