日本歴史地名大系 「久居市」の解説 久居市ひさいし 面積:六八・五九平方キロ三重県の中部、津市の南に隣接し、旧一志郡の東端部を占める。市域の東部は雲出(くもず)川左岸の氾濫原とその北側河岸段丘とであって、市の中心市街がその台地上にある。市の西部は布引(ぬのびき)山地から東へ延びる二つの丘陵に挟まれた地域で、その中央を流れる榊原(さかきばら)川に沿って集落が点在している。市名は「五鈴遺響」に「久居ノ名義ハ、安濃津ノ別府、今ノ府城ヲ置テ、永久ニ鎮居スルノ謂ニシテ、寛文年中ノ以後ノ名称ナリ」と記されているように、寛文九年(一六六九)九月、二代目津藩主藤堂高次の隠居に際して、次男高通へ五万石の分知が幕府に承認され、津の南方二里の野辺(のんべ)村に館を築き市街を建設した際に付けられた名称である。久居藩史「藤影記」には「寛文十年一志郡に築城の命を受く、八月縄張、十月工成り、久居と号す」とあるが、同書に引用する同一〇年正月付の藩主高通覚書に、すでに久居の名がみえているから、命名はもう少しさかのぼるものと認められる。〔原始〕縄文式土器を出土する遺跡は、上野(うえの)遺跡(戸木町羽野)や大口(おおぐち)遺跡(井戸山町大口)などのように、雲出川を望む河岸段丘の縁辺部からわずかに内陸側へ入った辺りに分布するほか、風早(かざはや)池畔の風早西南(かざはやせいなん)遺跡(戸木町風早)や、榊原川中流右岸のわずかに開けた平地の下村(しもむら)遺跡(榊原町下村)があるが、これらが縄文遺跡として似つかわしい立地条件にあるのに対して、昭和三八年(一九六三)に発掘の行われた赤坂(あかさか)遺跡(木造町赤坂)は段丘の麓、雲出川氾濫原の中の微高地に立地し、縄文から古墳時代に至る各時代の土器を数多く出土したことで注目された。弥生時代の遺跡は、全般的にこれらの縄文遺跡がそれぞれ拡大発展した形で存在し、赤坂遺跡も同じ氾濫原上の西隣に長持元屋敷(ながもちもとやしき)遺跡を生んでいる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by