日本歴史地名大系 「本吉庄」の解説 本吉庄もとよしのしよう 福岡県:山門郡瀬高町本吉村本吉庄瀬高町東部、現本吉一帯に比定される。建仁元年(一二〇一)の高良宮造営田数注文には高良(こうら)下宮(現久留米市)廻廊造営料を課された地として「本吉百七十町山門郡」とみえ、当時は公領として把握されていた。正和三年(一三一四)三月一日の北条政顕下知状(石清水文書/大日本古文書四―六)では香椎宮領本吉庄内の吉里(よしさと)・弘安(ひろやす)両名の神用米皆済が蒲池余一入道に命じられており、この間に香椎宮領本吉庄が成立していた。また南北朝時代諸国に利生塔が造られた際、筑後国では三潴(みづま)郡浄土寺(現大川市)内に同塔が置かれ、貞和三年(一三四七)八月二一日本吉・広川(ひろかわ)両庄がその料所とされた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報