日本歴史地名大系 「広川」の解説
広川
ひろがわ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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和歌山県中北部、有田(ありだ)郡の町。紀伊水道に面する。1955年(昭和30)広町と南広(みなみひろ)、津木(つぎ)の2村が合併して成立。1996年(平成8)町名の読みを「ひろかわ」から「ひろがわ」に変更。JR紀勢本線(きのくに線。広川ビーチ駅)、湯浅御坊道路(広川、広川南の各インターチェンジ)、国道42号が通じる。湯浅湾に注ぐ広川下流域を占め、町名は川名による。熊野街道も通る海陸の要地で、紀州守護畠山(はたけやま)氏の城跡がある。1854年(安政1)の津波のときに「稲むらの火」で村民を救った濱口梧陵(ごりょう)(1820―1885)が築いた広村堤防は、梧陵の墓とともに国の史跡に指定。景勝地天洲(てんす)松原があり、古生代化石のある名南風鼻(なばえのはな)や縄文・弥生(やよい)遺跡のある鷹島(たかしま)は釣り場として知られる。流域では野菜・果樹・花卉(かき)栽培が行われ、唐尾(かろ)漁港があり、沿岸漁業が行われている。法蔵寺の鐘楼、広八幡(はちまん)社の本殿、拝殿などは国指定重要文化財、田楽(でんがく)は選択無形民俗文化財。面積65.33平方キロメートル、人口6781(2020)。
[小池洋一]
『『広川町誌』全2冊(1974・広川町)』
福岡県南部、八女郡(やめぐん)にある町。1955年(昭和30)中広川、上広川の2村が合併して町制施行、同年下広川村の一部を編入。耳納(みのう)山地西端の山地が東部から北部に広がり、南西部には長峰(ながみね)の洪積台地が起伏、西流する広川沿岸に沖積低地が開け、国道3号が通じ、九州自動車道広川インターチェンジがある。主産業は農業で、米作のほか、モモ、ブドウ、ナシなどの果実や野菜、イチゴ、茶を産し、植木や花卉(かき)生産も盛んである。竹細工や久留米絣(くるめがすり)などの農村工業も活発だが、久留米方面への通勤者も増加している。国指定史跡の八女古墳群の石人山古墳(せきじんさんこふん)、善蔵塚古墳(ぜんぞうづかこふん)、弘化谷古墳(こうかだにこふん)の各古墳があり、広川ダム周辺は森林浴や釣りなどの行楽地となっている。面積37.94平方キロメートル、人口1万9969(2020)。
[石黒正紀]
和歌山県中西部,有田郡の町。人口7714(2010)。広川下流に位置し,北西は紀伊水道,湯浅湾に臨む。広川河口南岸の広が中心集落で,江戸時代,紀州藩主徳川頼宣が広御殿を建て,寛文年間(1661-73)には大波戸(波戸場)もできて港町として発展した。房総半島や五島列島などへの出稼漁民も多く,特に九十九里浜のイワシ漁,銚子のしょうゆ醸造業の発展の基礎を築いた。現在はミカン栽培を中心とする農業が基幹産業で,花卉の栽培も行われる。紡績工場,しょうゆ工場もある。安政地震の大津波のときに村民を救い,第2次大戦前の国定小学国語読本に〈稲むらの火〉として記された浜口梧陵の出身地で,梧陵の築いた広村堤防(史)が残る。海岸は天洲松原として知られたリアス式海岸の景勝地で,西有田県立自然公園に属する。広八幡神社の本殿,拝殿などや法蔵寺の鐘楼は重要文化財。JR紀勢本線,国道42号線が通り,阪和自動車道のインターチェンジがある。
執筆者:上田 雅子
福岡県南部,八女(やめ)郡の町。人口2万0253(2010)。耳納(水縄)(みのう)山地の南西に続く洪積台地と,筑後川支流の広川,長延川沿いの沖積低地からなる。西部を国道3号線が南北に通る。主産業は農業で,米のほかイチゴ,ブドウ,ミカンなどの果樹,茶,野菜の栽培が行われ,とくにブドウは県有数の生産地である。特産物として久留米絣(かすり),竹細工,植木などがある。九州自動車道のインターチェンジがあり,久留米・鳥栖テクノポリスの一角を占め,近年工業も成長している。町域南部から八女市北部にかけては人形原(にんぎようばる)台地とよばれ,八女古墳群(史)に含まれ,石人山(せきじんやま)古墳がある。
執筆者:松橋 公治
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