日本歴史地名大系 「瀬高町」の解説 瀬高町せたかまち 福岡県:山門郡瀬高町面積:三七・七三平方キロ山門郡の北東部に位置し、北は矢部(やべ)川を境に筑後市、東は八女(やめ)郡立花(たちばな)町、南東は清水(きよみず)山麓・大根(だいこん)川を境に山川(やまかわ)町、南は大根川・飯江(はえ)川河畔を境に三池(みいけ)郡高田(たかた)町、西は矢部川に沿って北部は三橋(みつはし)町、南部は大和(やまと)町に接する。北端部を西流する矢部川は当町の西部で南西に向きを転じ、南を西流してきた飯江川を合せて流下し有明海に達する。東部低丘陵地を除き、大部分の町域が矢部川によって形成された沖積平野で、肥沃な穀倉地帯となっている。中央部西寄りをほぼ南北にJR鹿児島本線と国道二〇九号が貫通し、これに交差して国道四四三号が南東から北西に通り、東部を九州縦貫自動車道が南北に走る。古墳時代にはすでに大集落の大道端(おおみちばた)遺跡が形成されており、東方丘陵部には古代山城の遺構である女山神籠(ぞやまこうご)石がある。律令制下では町域の大部分が山門郡に、北端部が上妻(かみつま)郡・下妻(しもつま)郡に属したとみられる。「和名抄」所載の山門郡大江(おおえ)郷が当町に比定されている。また古代西海道は町域を南北に縦断していたとみられる。 瀬高町せたかまち 福岡県:柳川市柳川城下瀬高町[現在地名]柳川市京町(きようまち)札辻本(ふだのつじほん)町から東へ延び、南へ直角に折れて細工(さいく)町の通りへ続く通りに沿った両側町。西から一丁目・二丁目・三丁目に区画される。町人地。町名の由来は、元来当町から瀬高駅(現瀬高町)へ至る道が一直線に延びていたことによるとされる(柳河明証図会)。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる町小路等絵図によれば竈数は一丁目四七、二丁目五二、三丁目五三。道幅は一―三丁目まで二間余、長さは一丁目六六間余、二丁目五四間余、三丁目六三間余(柳川惣町図)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by