本多精一(読み)ホンダ セイイチ

20世紀日本人名事典 「本多精一」の解説

本多 精一
ホンダ セイイチ

明治・大正期のジャーナリスト



生年
明治4年2月12日(1871年)

没年
大正9(1920)年1月10日

出生地
福井県武生町

別名
字=允中,号=雪堂

学歴〔年〕
東京帝大法科大学〔明治29年〕卒

学位〔年〕
法学博士〔大正5年〕

経歴
明治29年同志社教授となり、32年「大阪朝日新聞」経済部長に就任。大阪ガス会社報償問題の世論喚起に務め成果をあげる。38年退社し、政治経済・新聞事業の視察・研究のため外遊、帰国後「東京日日新聞」社長兼主筆となる。44年再び大阪朝日新聞社客員。大正元年憲政擁護の第1次護憲運動が起こると、竹越与三郎、斯波貞吉らと発起人となり憲政擁護会を創立、各地で遊説を行い、精力的に運動の推進力として活動。桂内閣が倒れ山本内閣が成立後に運動を収束。大正3年財政時報社を設立し、「財政経済時報」を発刊、国家財政の論評には定評があった。著書に「地方財政問題百話」「新日本の財政経済」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「本多精一」の解説

本多精一

没年:大正9.1.10(1920)
生年:明治4.2.12(1871.4.1)
明治大正時代のジャーナリスト。号は雪堂。武生藩(福井県)の家老本多鼎介の長男。東京帝大卒業後,同志社大学講師を経て,明治32(1899)年大阪朝日新聞に入社。35年の大阪瓦斯会社報償問題では,経済課長として,会社側を非難する論陣を張った。38年退社し,欧米視察後,東京日日新聞の社長・主筆となった。44年,再び大阪朝日新聞の東京駐在客員となった。大正3(1914)年,自ら財政時報社を設立して,『財政経済時報』を創刊した。7年の白虹事件後,『大阪朝日新聞』の主筆格となった。経済通として知られ,『地方財政問題』『新日本の経済』『財政問題百話』などを著した。<参考文献>朝日新聞百年史編修委員会『朝日新聞社史』明治編,大正・昭和戦前編

(井川充雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多精一」の解説

本多精一 ほんだ-せいいち

1871-1920 明治-大正時代の新聞記者,経済評論家。
明治4年2月12日生まれ。同志社講師,大阪朝日新聞経済課長をへて,明治39年東京日日新聞社長・主筆となる。大正3年財政時報社を設立し「財政経済時報」を創刊した。大正9年1月10日死去。50歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。帝国大学卒。号は雪堂。著作に「財政問題百話」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「本多精一」の解説

本多 精一 (ほんだ せいいち)

生年月日:1871年2月12日
明治時代;大正時代のジャーナリスト。東京日日新聞社長・主筆
1920年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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