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竹越与三郎 たけごしよさぶろう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

竹越与三郎
たけごしよさぶろう

[生]慶応1(1865).10.14. 武蔵
[没]1950.1.12. 東京
政治家,歴史家。号は三叉。慶應義塾卒業後,新聞記者となり,時事新報社,国民新聞社で活躍。西園寺公望知遇を受け,文部省に入った。のち立憲政友会に所属し,1902年から5回衆議院議員に当選。 1923年貴族院議員,1940年枢密顧問官歴任。著書に『日本経済史』『二千五百年史』など。

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デジタル大辞泉の解説

たけこし‐よさぶろう〔‐ヨサブラウ〕【竹越与三郎】

[1865~1950]政治家・歴史家。埼玉の生まれ。号、三叉(さんさ)。「国民新聞」などの記者として活躍。雑誌「世界之日本」主筆政友会代議士・枢密顧問官などを歴任。著「新日本史」「日本経済史」「二千五百年史」など。

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百科事典マイペディアの解説

竹越与三郎【たけごしよさぶろう】

新聞記者,政治家,民間史論家。号は三叉。埼玉県本庄の人。慶応義塾に学び,《時事新報》等の記者を経て,西園寺公望らに知られ《世界之日本》誌主筆。1902年以後衆議院議員,1923年貴族院議員,1940年枢密顧問官。
→関連項目民友社

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

竹越与三郎 たけこし-よさぶろう

1865-1950 明治-昭和時代前期の日本史家,政治家。
慶応元年10月5日生まれ。「時事新報」「国民新聞」などの記者をへて明治29年雑誌「世界之日本」を創刊。35年衆議院議員(当選5回,政友会),のち貴族院議員,枢密顧問官となった。昭和25年1月12日死去。84歳。武蔵(むさし)本庄(埼玉県)出身。旧姓は清野。号は三叉。著作に「新日本史」「二千五百年史」「日本経済史」など。
格言など】歴史とは則ち理想の老朽せるものなり(「個人乎(か),国家乎」)

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世界大百科事典 第2版の解説

たけごしよさぶろう【竹越与三郎】

1865‐1950(慶応1‐昭和25)
明治時代から昭和前期に活躍した政治家,歴史家。号は三叉(さんさ)。武蔵国本庄に生まれ,のち竹越家を継ぐ。慶応義塾を卒業後,《時事新報》《国民新聞》などの記者となり,陸奥宗光,西園寺公望らの知遇をえ,《世界之日本》の主筆となる。この間に《新日本史》(1891,92),《二千五百年史》(1896)を刊行して民間史学を代表する歴史家として名声を博した。1902年から代議士に5回当選し,政友会に所属した。22年宮内省の臨時帝室編修局御用掛となり,翌年には貴族院の勅選議員に選任され,さらに40年枢密顧問官となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

竹越与三郎
たけごしよさぶろう
(1865―1950)

明治・大正期の史論家、新聞記者、政治家。慶応(けいおう)1年10月4日、武蔵(むさし)国(埼玉県)本庄(ほんじょう)で、越後(えちご)国柿崎(かきざき)出身の清野(きよの)仙三郎の次男として生まれる。三叉(さんさ)、鬼谷(きこく)先生、夢履(むり)の号を用いた。1880年(明治13)に郷里の柿崎から上京、中村敬宇(なかむらけいう)、福沢諭吉に学び、1883年には伯父竹越藤平の養子となり、慶応義塾在塾のまま時事新報社に入ったが翌1884年退社、以後、『国民之友』『大阪公論』『国民新聞』などで活躍。1891年に民友社から刊行した『新日本史』上巻(中巻は翌1892年、下巻は未刊)は、明治維新の総括的な把握を試みた独自の史論であり、『二千五百年史』(1896)は当時のベストセラーとなった。さらに『日本経済史』全8巻(1919~1920)の編纂(へんさん)にも従事した。この間、陸奥宗光(むつむねみつ)、西園寺公望(さいおんじきんもち)の知遇を得て雑誌『世界之日本』を創刊し、『二六新報』『読売新聞』『日本』『東京毎夕新聞』に参加、1926年(大正15)には『東京日日新聞』客員となり自由主義的筆陣を張った。また、1902年(明治35)以来衆議院議員に5期当選し、1923年に勅選貴族院議員、1940年(昭和15)に枢密顧問官となった。昭和25年1月12日、東京玉川用賀の自宅で死去。[松島榮一]
『『二千五百年史』全5冊(講談社学術文庫) ▽『新日本史』上下(岩波文庫) ▽松島榮一編『明治文学全集77・78 明治史論集(1)・(2)』(1965、1976・筑摩書房) ▽高坂盛彦著『ある明治リベラリストの記録――孤高の戦闘者・竹越與三郎伝』(2002・中央公論新社)』

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世界大百科事典内の竹越与三郎の言及

【クロムウェル】より

…広範な社会活動を展開した小説家木下尚江の出発点には,松本中学の歴史の教室でのクロムウェルとの出会いがあったし,また教育勅語の発布を契機に起こった〈内村鑑三不敬事件〉(1891)の背後には,カーライルの書物を愛読した内村のクロムウェルへの傾倒があり,その後も内村はしばしばクロムウェルの生涯を論じている。なお日本で最初に彼の伝記を執筆したのは,竹越与三郎であって,その《格朗穵(クロムウェル)》は,1890年民友社から刊行された。ピューリタン革命【今井 宏】。…

【明治維新】より

…民権運動が目標とした国会開設の原点は五ヵ条の誓文に代表される〈維新の精神〉に求められ,明治藩閥政府はそれを忘却したと攻撃されたのである。これは明治20年代前半の民友社の平民主義の主張にもうけつがれ,徳富蘇峰,人見一太郎,竹越与三郎(三叉(さんさ))らの主張に代表された。彼らは〈維新の精神〉こそが原点であって,今の政府は〈維新大革命の血脈に背くもの〉で,決して正統なあとつぎではない,と批判した。…

【リソルジメント】より

…その後日本では,イタリア建国の三傑としてガリバルディ,カブール,マッツィーニに焦点を当てたリソルジメントのイメージが作られるようになる。この場合も論者により三人への比重の置き方は違っており,竹越与三郎《新日本史》(1891‐92)は〈以太利は欧州の日本也〉と述べて,自由主義政治家としてのカブールに高い評価を与えた。また徳富蘇峰《吉田松陰》(1893)は,松陰の精神と横井小楠の理想を兼ね備えた人物としてマッツィーニを紹介し,三宅雪嶺は明治30年代初めの論文でガリバルディを西郷隆盛と比較しながらその人物像を詳細に描いた。…

※「竹越与三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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