日本歴史地名大系 「杉下村」の解説 杉下村すぎしたむら 山形県:東村山郡山辺町杉下村[現在地名]山辺町杉下北目(きため)村の南西方に位置し、村内を小鶴沢(こづるざわ)川が東流する。杉之下(すぎのした)村とも称した。元和八年(一六二二)山形藩領、正保元年(一六四四)幕府領、天和二年(一六八二)大名本多利長領、元禄一二年(一六九九)幕府領となる。寛保二年(一七四二)米沢藩預地となったが、宝暦三年(一七五三)幕府直轄領に復し、天保一三年(一八四二)からは山形藩領となり、藩主秋元氏の転封により、弘化二年(一八四五)からは上野館林藩領。 杉下村すぎしたむら 鳥取県:東伯郡東伯町杉下村[現在地名]東伯町杉下加勢蛇(かせいち)川右岸の火山扇状地性台地に位置し、同川を境に西は種久(たねひさ)村。拝領高は三〇九石余、本免は五ツ五分。藪役銀一二匁・川役銀一匁を課されており(藩史)、石河氏・斎藤氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高三五二石、竈数二六。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数二九、うち余業八(大工三、屋根葺・博労・木綿賃引各一など)。 杉下村すぎしたむら 茨城県:筑波郡谷和原村杉下村[現在地名]谷和原村杉下寺畑(てらはた)村の南、小貝(こかい)川西岸に位置。文禄二年(一五九三)に中村大学・兵庫の二名が筒戸(つつど)村下馬木(げばぎ)より移住して開村、上筒戸(かみつつど)村が成立したという。寛永一一年(一六三四)に杉下村と改称(北相馬郡志)。「寛文朱印留」に杉下村がみえて下総関宿藩板倉氏領。 杉下村すぎしたむら 埼玉県:川越市杉下村[現在地名]川越市松郷(まつごう)寺井松郷(てらいまつごう)の南、四周を松郷に囲まれた低平地に立地する小村。もとは川越城内東方にあったが、松平伊豆守の時代、城域拡張のため松郷の中に移されたという(風土記稿)。文禄四年(一五九五)二月酒井忠利から「杉下」の上田一反が川越氷川神社に寄進されている(氷川神社文書)。田園簿では田高二八石余・畑高一〇一石余、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三一石余、反別田一町六反余・畑一町四反余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by