日本歴史地名大系 「波郡」の解説
波郡
つくばぐん
県南西部に位置。筑波山以南、
筑波の地名は「古事記」景行天皇段、「日本書紀」景行天皇四〇年条に
とみえ、「常陸国風土記」には「筑波の郡東は茨城の郡、南は河内の郡、西は毛野河、北は筑波岳なり」の記載があるが、「茨城の郡」は近世初期の郡域整理により新治郡となり、「毛野河」(鬼怒川)はその乱流の歴史を考えると、現在の小貝川筋が八世紀の鬼怒川と考えられ、郡の西限は下総国界であった。したがって郡の位置は古代以来大きな変動はないが、「河内の郡」は太閤検地によって西半が筑波郡とされ、さらに明治以降に河内郡・新治郡・北相馬郡との間で境界変更が行われ、郡域が拡大した。現郡域は筑波山南の桜川流域、筑波稲敷台地、小貝川・鬼怒川流域の三地区に大別される。また筑波町・大穂町・豊里町・谷田部町域に「筑波研究学園都市」の一部が新設され、多大な影響を与えている。
〔原始〕
筑波山は幾度もの変動を経て約一千万年前に出現し、やがて関東平野も現れたが、六〇万年前頃に陸地は沈下し、古東京湾が形成され、筑波山系は南北に突出た半島となった。三万五千年前の富士山大噴火で今日の関東ローム層台地が形成され、隆起・沈下と浸食によって桜川・小貝川流域や筑波稲敷台地のヤトが作られた。現在の地形の安定がみられるようになったのは二千年くらい前で、筑波山周辺でヒトの生活が開始されたのもこの時期であろうか。先土器時代の遺跡には大穂町の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報