村山西部街道(読み)むらやませいぶかいどう

日本歴史地名大系 「村山西部街道」の解説

村山西部街道
むらやませいぶかいどう

最上川東岸を通る本街道である羽州街道に対し、西岸を通る脇道間道で、河西横山かわにしよこやま通ともよばれた。寒河江さがえ越井こしい坂を発し、北へ谷地やちを経て大石田おおいしだ(現北村山郡大石田町)の横山に至る。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図(秋田県立図書館蔵)によると、寒河江君田町きみたまち石川いしかわ小泉こいずみ(以上現寒河江市)工藤小路くどうこうじ北口きたぐち吉田よしだ(以上現河北町)大久保おおくぼ大槙おおまき白鳥しろとり駒井こまい(以上現村山市)田沢たざわ―横山(以上現大石田町)となる。谷地はこの街道の宿場町的性格をもっていたが、公的な宿駅でないので、本街道の継立や助郷のための人馬徴用はなかった。享保一九年(一七三四)の前小路村明細帳(茂木文書)には「御伝馬宿入用米、高掛リニ而相納申候、但百石ニ付六升懸リ上納仕候(中略)助人馬何方江之村江成共、助人馬不仕候(中略)往還之道筋、当村ニ無御座候」とある。脇街道のため人通りも多くはなかったとみえ、「東講商人鑑」には、東講商人宿として大町おおまち村の田宮五右衛門と行人宿商人宿吉田屋権七があったにすぎない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報