山形県中央部の市。1954年(昭和29)西村山郡の寒河江町と西根、柴橋(しばはし)、高松、醍醐(だいご)の4村が合併して市制施行。同年白岩(しらいわ)町と三泉(みいずみ)村も編入。山形盆地の西部に位置し、出羽(でわ)山地の葉(は)山(1462メートル)の南麓(なんろく)部と寒河江川扇状地の南半を占め、東部と南部は最上(もがみ)川の沖積低地が広がる。西村山郡一帯は12世紀初頭に成立した寒河江荘(しょう)を鎌倉時代に幕府の重臣大江広元が拝領し、その後約400年にわたって寒河江城を中核として地頭大江一族が支配した。戦国時代の最上氏支配を経て、江戸時代には大半が幕府の直轄地となった。中心の寒河江は、代官所が置かれてからは在郷町として発達。明治に入ると郡役所が設置され、国鉄(現、JR)の左沢線(あてらざわせん)開通(1922)後は西村山郡一帯の行政、経済の中心となった。農村部は果樹栽培が盛んで、サクランボは県内有数の産地。果樹生産と結び付いた缶詰加工やコンビーフなどの食品工業や、メリヤス製造の地場産業が盛んである。左沢駅近くに寒河江中央工業団地が造成されている。旧六十里越(ごえ)街道は国道112号となって山形市、鶴岡(つるおか)市へ通じている。ほかに、国道287号、458号が通じ、山形自動車道寒河江、寒河江SAスマートの2インターチェンジが設置されている。寒河江川左岸の丘陵上にある慈恩寺は東北最大の朱印地を有した古刹(こさつ)で、国指定重要文化財の本堂や阿弥陀如来(あみだにょらい)坐像などの文化財が多い。また5月5日には、隣接する河北(かほく)町谷地八幡宮(やちはちまんぐう)に伝承される林家(はやしけ)舞楽(国指定重要無形民俗文化財)が慈恩寺で奉納される。なお、市街地西部に寒河江温泉がある。面積139.03平方キロメートル、人口4万0189(2020)。
[中川 重]
『『寒河江市史編纂叢書』全34巻(1956~1980・寒河江市)』▽『『寒河江市史』全3巻(1994~2007・寒河江市)』
山形県中央部の市。1954年寒河江町と西根,柴橋,高松,醍醐の4村が合体,市制。人口4万2373(2010)。山形盆地西部に位置し,市域は葉山(1462m)の南麓部と最上川の支流寒河江川の扇状地の南半を占め,東部には最上川の沖積低地が広がる。明治に入って郡役所が置かれ,山形市に至る左沢(あてらざわ)線の全通(1922)によって西村山郡一帯の行政・経済の中心地として発展した。農村部は果樹栽培が盛んで,サクランボは県内随一の生産を誇る。フルーツやコンビーフの缶詰加工業,ニット工業,草履の生産などの地場産業がある。山形市と鶴岡市を結ぶ国道112号線(旧六十里越街道),東根市と米沢市を結ぶ国道287号線が通り,山形自動車道のインターチェンジがある。駅の近くには寒河江温泉がある。寒河江川扇状地扇頂部左岸の丘陵にある天台・真言両宗の慈恩寺は東北地方最大の朱印地をもっていた古刹(こさつ)として知られる。
執筆者:中川 重
中世の寒河江荘の地で,大江広元が鎌倉期に地頭となって以来,寒河江は荘内の中心であった。1584年(天正12)大江氏は最上義光(よしあき)に滅ぼされたが,中世以来の寒河江城は最上氏によって拡張・整備された。その後城郭は元和年間(1615-24)に破却され,在郷町としての発展をみる。はじめ山形藩最上氏領,1622年以後は天領となり,楯西・楯南・楯北各村の町場からなっている。36年(寛永13)以後,村山郡の天領6万3000石余を支配するため,楯南村に幕府代官陣屋が置かれ,その後幕末まで続き,陣屋町あるいは在郷町として発展した。六日町,七日町,十日町,新町などの市場町が発達したことはそれを示す。1885年楯北,楯南,楯西,本楯(もとだて)の4村が合併して寒河江村となり,89年には戸数921,人口5228。
執筆者:横山 昭男
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